tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

グローバルの波に乗るか飲まれるか ーオタク文化から考える日本人の “寛容” ー

 昨今のグローバル化の流れに伴うように、多様化を認める “寛容” という要素が重視されつつあるように思う。しかし、国際的な広い視野からみると、日本人には圧倒的にそれが欠如していると私は思う。

 

 それを象徴的に示しているのが、日本における「オタク文化」だと思う。オタクを自認する私からすると、非オタから向けられる「オタク」という呼称が、多少の蔑視を含む表現であることは、既に過去の記事においても言及した点ではある。

 オタクに対する社会的な蔑視を示す最も代表的な事例は、2018年5月ごろに新潟県で発生した女児殺害事件に関する一連の報道である。報道各社は、被疑者の男が学生時代にアニメ好きだった事ばかりを強調し、あたかもオタクたるがゆえに犯行に及んだという、「オタク=害悪」だと言わんばかりの偏った報道を行った。全国のアニメファンやオタクが憤ったこの一件は、同じくオタクである私の記憶にも未だ新しい。

 もう少し身近な例を挙げてみたい。非オタがオタクに対して言う「めっちゃ語るじゃん」という一言にもそれは表れる。その場面に遭遇したことのない人には、あまりピンと来ないかもしれない。しかし、これもただ純粋に好きな気持ちを言葉で表現しただけの相手に対して理解を示すどころか、むしろ拒絶にも近いような反応なのだと私は認識している。これが俗に言う「ドン引き」である。得体の知れない何かを蔑んで見るようなあの目は、オタクに過度な恐怖を与える。

 このように、非オタの日本人がオタクに対して向ける目はあまりにも厳しい。

 

 私自身の感覚として、日本人は集団意識が非常に高い民族だというものがある。それゆえに、自分が属する集団の中に少しでも特性の違う者を見つけると、それを排除することによって、さらに居心地のよい集団にすることを図っているようにも感じられる。その一方で、そのような、迫害とも言える扱いを受けた人たちも、自らで新たな集団を形成し、自分たちの存在意義や社会的地位を何とか守ろうとする。これが日本を二分する陰キャラ<陽キャラ」構造へ発展し、それがひいては いじめ の要因にもなりうるような状況が存在する。

 

 オタク文化をはじめとして、現代の日本社会にはこのような “不寛容” の精神が未だに色濃く根付いている。それに気づく日本人が果たしてどれほどいるのだろうか。そのようなある種の後進性を顕著に示す文化を持つ日本が、多様性を広く認める、言うなれば先進的グローバル化の波に乗ることは本当にできるのだろうか。近年では、オタク文化日本の素晴らしい文化の1つとして海外に流入しつつある。しかし、その文化が日本で定着するに至る暗い背景を知った海外の「オタク」たちは、それを一体どう感じるのだろう。私とてオタクである以前に日本人の端くれである。現代の日本社会・文化が抱える後進性だけがグローバル化の波に飲まれてしまわないか、心配は尽きない。

 

 

 

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 noteもやっていますのでよかったら覗いてみてください。

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【総括】今年もありがとうございました

 2019年の新たな試みとして始めたこのブログですが、なんとかやめることなく年の瀬を迎えることが出来ました。

 過去のブログを読み返してもらえればお分かりいただける通り、ここまで紆余曲折がありました。と言うか、最初期の頃の記事は自分でも読むのが恥ずかしくなるような気持ちの悪いものばかりです。そうやって手探りで始めたわけではありますが、主に私の友人たちを中心に、想像以上に多くの人に読んでもらえているようで、とても嬉しく思います。

 そして、いつも結局この話に落ち着くのですが、ブログを始めてから自分の考えを整理して表現する能力が非常に上がったという実感があります。それに伴って、それを表現するための語彙力や文章力も上がったと思います。それもこれも全て私にブログを勧めてくれた友人のおかげです。

 末尾になりますが、4月からの約8か月、こんな拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。2020年もできる限り、できる範囲で続けたいと考えています。今後ともよろしくお願いいたします。

 2019年も残すところあと数時間ですが、どうぞ良いお年をお迎えください。ありがとうございました。

授業の面白さポイントは何点? ‐教育の真の在り方とは‐

 私のブログを何度もお読みいただいている方々にはもはや自明かもしれないが、私は社会科教員を志す歴史学生である。したがって、それに相応しい教養を身につけることが求められ、歴史学生でありながら、歴史以外の事も学ばねばならない。例えば、法律であるとか、経済であるとか。それらは私の専攻ではない分野であるから、当然そこには明るくない。明るくないから、授業を聞いていても理解できたり、できなかったり。話を聞いても理解できない授業は面白くない。面白くないから余計に話を聞かない。話を聞かなくなるから、その分野に全く明るくならない。だから、いつまで経ってもその授業は面白くならない。これが、教育における「負の連鎖」である。同様の現象は大学のみならず、中学や高校でも起きているだろうし、実際に私も経験したことがある。これは深刻な問題でろう。

 しかし、その是正には並々ならぬ努力が必要となる。そう考えるようになったのは、最近受講した集中講義からである。その集中講義を担当する先生の授業(これも集中講義だったが)を以前にも受講したことがあった。その先生の授業は、正直に言えば当時の私にはあまり面白く感じなかったのだ。面白さポイントを付けるなら10点といったところか。なぜなら、前述の通り専門外の授業だったからだ。しかも、私は自他共に認める不真面目な学生であるため、一度でも「面白くない授業」判定を下せば、その授業は文字通りの片手間で聞いてしまう。そのため、その授業を惰性で過ごしてしまった。つまり、上の連鎖と全く同じことが起きてしまったのである。

 かくして、この度同じ先生の授業を受けたのであるが、それが不思議なことに、結構ちゃんと面白く感じるのだ。面白さポイントで言えば68点ぐらいであろうか。以前と言っても約2年半ほど前になるが、この変化はその間に先生の授業方針が変わったと言うよりは、私自身に蓄積された知識量が増えたことに起因するのではないかと思う。つまり、基盤となる知識が増えたことに伴い、先生の説明が何となくではあるが、理解できる部分が増えたのである。理解できる部分が増えれば、当然面白いと感じる部分も増えるので、結果として面白さポイントも上昇したのであろう。

 私自身のこの経験は、昨今の教育界の状況について考える上で、私にとってはある種必要な経験であったと思う。生徒に「授業が面白い」と思ってもらうには、生徒の側にも、それを理解するに足る相応の知識を持っていることが前提となるのだ。若い人が、オジサンのギャグを聞いてつまらないと感じるのと同様、どれだけ話している本人が楽しそうでも、それが伝わらなければ、さらに言えば理解してもらえなければ、聞いてる側は面白いと感じないし、聞くための熱量も冷めてしまう(これを一般に「寒い」というのだろう)。つまり、先生がどれだけ頑張って教材研究して工夫して授業をしても、面白くないものは面白くないし、面白いものは面白い。そういうものなのだろう。

 これは私論でしかないが、「理解する」感覚というのは「知識の点と点が線で繫がる」感覚に限りなく近い。つまり、「知っている」ことと「理解する」ことは区別されねばならないのだ。従来の社会科教育は概ね前者に重きが置かれてきたように思う。しかし、近年は後者を重視する傾向が強くなり、それを反映する形で学習指導要領の改訂も行われた。「主体的・対話的で深い学び(アクティブラーニング)」をと呼ばれる授業が求められるようになったのである。しかし、何度も言うように、授業による生徒の理解度は生徒の知識レベルに大きく依存する。これまで社会科嫌いな人間が多くいたのは、ただ知識を教え込まれるのみで、それを線で繋げるような過程を経るような授業が行われてこなかったからだろう。私自身は、これからの教育においては、「理解」のみに重点を置くのではなく、これまで通り「知識」を定着することも継続して行われていくべきだと思う。そうでなければ、どれだけ教員が点と点を線でつなげるような授業をしても、生徒の持つ点がなければそもそも線を繋ぐこともできず、結果的に生徒が授業を面白いと感じることも増えることはないだろう。ただ趣向を凝らしただけの授業を面白いと感じる生徒は、それ相応の知識を持つ生徒だけだと、私は思う。

    しかしながら、結局のところ、「面白くない」授業をいかにして「面白く」するかは、教員の力量による。私が真に言いたいのは、どれだけ頑張っても生徒全員にウケる授業をするのは困難だが、そのための努力というのは、必要最大限に行わなければならないということである。「どうせ面白くないなら今まで通りでいい」などのような安易な割り切りによるたった1人の教員による独断専行が、どれだけ多くの「負の連鎖」を生み出すのか、もっと深く考えなければならない。

“狂う” ということ ー特別講義「夜の恋愛学概論」受講レポートー

 もうひと月も前になりますかね。ある夜のことでした。私は数人の友人たちと学校で勉学に励んでいました。それは決して物珍しい光景ではありません。先輩たちからも一目置かれるほどの “意識高い系” が集まった私たちの学年は、夜遅くまで学校に居残り、勉強している事が多いのです。ですが、その日の夜は少し違いました。私たちがいる部屋の真向かいの部屋の研究室にいる、ある先生が、私たちに「君たちにはずっと前から面白いものを見せてあげようと思っていたんだよね」と声をかけてくださったのです。その時の先生は、勉強が忙しそうだしまた今度という感じだったのですが、思いの外私たちの食い付きがよかったため、先生の研究室にて特別講義「夜の恋愛学概論」が開講されたのです。

 その講義では、先生ご自身の経験を踏まえて、様々なことを語ってくださったのですが、中でも印象的だったのは「恋愛は狂うくらいがちょうどいい」というフレーズ。人目をはばからずにイチャついてるカップルは、自分たちだけの世界に酔いしれる、文字通り酔狂な状態。だから、その世界の外にいる、文字通りの外野の声は届く訳もなく、外野がとやかく言う筋合いもないと、そういうことだそうです。

 私は、理性的に感情的な人間だと感じています。自らの感情を理性的(=論理的)に理解しようとし、理性によって自覚的に感情を抑揚させる部分がある人間だと思っているのです。したがって、私は “狂う” つまり、理性を失くすことに対して人並み以上の、恐怖にも嫌悪にも近く、またそれらとも異なる感覚があるのです。

 先生はまた、「30歳を過ぎると恋にかまける自分を、さらに達観しているもう一人の自分がいて、どうしても少し頭が冷めてしまう」と仰っていました。私にもいるな。と思いました。およそ20年の人生しか送っていない若輩者のはずですが、私にも既に自分を達観する——というよりは俯瞰しているという方が正しいかもしれませんが——もう一人の自分がいるのです。それが前に述べた、感情を理性的に抑制しようとするというところに繋がっているのでしょう。

 それの良い・悪いは私には判断しかねるところです。ただ、いわゆるおじさんと呼ばれうる人たちが、「自分の若いころは~」とか「若気の至りでね~」などと楽しそうに自分の失敗談・武勇伝を語っているのを見たり聞いたりすると、少しうらやましいなと感じます。それと同時にこんな自分では、将来そんな話をすることはできないなと、物悲しさも感じています。とは言え、まだ遅くはないと思いたい。いつからか私の中に生まれてしまった、自分を俯瞰するもう一人の自分を1度殺して心から “狂い” 、若気に至りたいと強く感じた「夜の恋愛学概論」でした。

コミュニケーションを考える ー「字が綺麗でした」から見るひねくれ者流 “メタ読み” ー

  久方ぶりの投稿になりました。週1ペースを何とか死守したいものですが、理想と現実は大きく違うなぁと頭を悩ませる日々が続いています。

 さて、先日私が通う大学では大学祭なるものが開催されまして、私が所属するゼミでは、毎年恒例ではあるのですが、ゼミ展示を行いました。“ゼミ” と一口に行っても、大学一般に設置されているいわゆる “ゼミ制” とは少し違いまして、私の所属学科では “自主ゼミ” という、専門(にしたい)分野ごとで、学生たち自らがゼミを開催するという方式をとっています。したがって、“ゼミ” は存在するが、“ゼミ制” は存在していないという、周りから見れば少し奇妙な状態が、私の学科では伝統的に続いている訳なんですね。(同じ大学内でも、このような方式を採っている学部・学科が少ないので、他学部の友人にゼミの話をする際は、毎回同様の説明をしないといけなくなり、少々面倒に感じる自分もいます。)

 話を本題に戻しましょう。展示を開催するにあたり、来場者の方々に、アンケートの記入をお願いしていました。数日前にその集計を終えたのですが、正直アンケートの集計って結構ストレス溜まるなぁと(笑)。色々と思うところはあったのですが、特に私の目を引いたのは「字が綺麗でした」とだけ書かれた回答用紙。展示に使ったパネルは、手書きで作成していました。私自身は字が大変汚く、パネルの字は女子のゼミ員に書いてもらっていたので、私にかけられた言葉ではないことは自覚しています。だからこそ、余計に目に止まったのかもしれません。そうやって書いてくださった方々は、心の底から「字が綺麗で読みやすかったなぁ」と思って書いてくださっていると思います。ですが、ひねくれ者の私が、それだけしか書かれていないアンケート用紙を目の前にすると、何かどことない虚無感を覚えるというか、「そっかー……」みたいな気持ちになってしまったんですね。私の個人的な思いとしては、読みやすい字で書くことも当然必要ですが、それ以上に来てくださった方に理解してもらいやすい展示を心掛けて作ったつもりでした。つまり、(書いてくれた彼女には大変失礼なのですが)字の綺麗さ以上に内容を見てほしかったのです。なので、「面白かった / 面白くなかった」「わかりやすかった / わかりにくかった」とかそんな程度でいいので、内容に少しでも触れてもらえればそれで本望だったのです。そんな思いを持っていざ「字が綺麗」の一言だけ書かれた回答用紙を前にすると、「この方には、私たちの展示はさほど印象に残らなかったのかな」「他に書けることないくらい、興味を引けなかった / 難しかったのかな」といった寂しさにも近い、何とも言えない思いになってしまうのです。しかも、それが1枚や2枚なら特筆することもなかったのですが、思いの外そのような回答用紙が多く見受けられまして、看過できなくなってしまいました。しかしながら、アンケートを書いていただけていること自体がそもそもありがたいことだということは、当然理解しています。それに、そのように書いてくださった方を非難する意図があってこの記事を書いているわけでもないということを、言い訳がましくはなりますが、断らせていただきたいと思います。

 こんな風に、ある言葉からそこに書かれていない意味まで読み取ろうとすることを、俗に「メタ読み」と言います。私は無意識的にメタ読みをしている節があります。今回もそのいい例です。メタ読みが上手く出来ると、相手の言葉の真意に早く気づくことができ、円滑なコミュニケーションの助けになると、私自身は考えています。特に、メールやSNS上でのやりとり、ひいては今回のようなアンケートのように、文字のみの意思疎通・意思表示を行う上では、必要性の高い能力だと思います。しかし、そればかりに気を取られていると、今回のように不要な心配や深読みをし過ぎるあまり、勝手に誤解をして自爆してしまう場合もあります。私自身がそのように深読みしてしまいがちな人間ですので、文字によるコミュニケーションをする場合は、私はその点を非常に気にします。どのような文面であれば誤解を与えないで済むか、結構考えながらやりとりをすることも多いです。逆に、私が真に伝えたいメッセージを別の文面に隠すこともまたあります。それを意地汚く使えば “皮肉” になってしまいますが、文字によるメッセージは、本人が想定する以上に強い意味を含んで相手に届くことも多いです。なので、皮肉めいた言葉・皮肉に解釈されそうな言葉は、文字でのやりとりではあまり使わないようにしています。(「それじゃあ、皮肉めいた言葉を使うときは皮肉だと捉えられてもいい時なのか?」と考えたそこのあなた。それこそがメタ読みですよ。)

 そんなように、偉そうにメタ読みだの何だのと言っていますが、私もコミュニケーションはまだまだ上手ではないと思っています。一朝一夕で身につけられる力ではありませんが、こうして時折、自分のコミュニケーションに疑問を持つことを大事にしていきたいと思います。

 いつになくぼんやりとした結びですが、今日はこの辺で。

倣うより慣れろ -「所感を述べよ」から見える思考表現力-

 先日、授業の課題の一環で読み物をしたという話から記事を1つ書きました。その課題というのが、読み物をしてその “所感を述べよ” というレポート課題(×5)だったのです。私自身は、さほど苦労もなく淡々と思った事を書いた(と言っても1200~1800字×5なので、物理的には相当しんどかった)のですが、周りの同じ授業を受ける人たちの中には、「所感を述べられるような内容の資料でもないのに、どうやってレポート書くの」と苦労した人もいたようなんですね。なんでかなーって考えたんですよ(もはや恒例行事)。その違いが生まれる要因って何かなーって。すると、やっぱり結論は「俺、ブログやってっから卍」になるんですよね。おっと、急にIQ下がったみたいなので元に戻します。

 コイツ、記事書くたびにブログブログやかましいなぁって思いますよね。私も皆さんの立場ならそう思います。でも、やってみるとわかるんですよ。ブログの凄さが。しかも、それを実感する時というのは、ブログ以外の活動をしてる時なんですよね。ブログを書く時は、本当にだらだらと思った事を書いてるだけなんですよ。はてブロのアプリを使えばスマホからでも簡単に書けるので、何なら布団の中でブログを書くこともしょっちゅうあります。まさしく片手間でこなすブログなんですが、やっぱり片手間でも、思考を表現する力って結構身につくものみたいなんです。不思議なもので。

 さらに言えば、書いてる題材ってそんなに特別なものじゃないんですよ。最近あんなニュースあったなぁとか、この前授業で先生こんな事言ってたなぁとか、日常生活の中のほんの些細なことなんですよ。私の場合は、そこに趣味の話とか、自分の思考回路を文字に起こしてみたものだったりとか、あとは何だかよくわからないやつとか(私の友人には、深夜テンションで頭がおかしくなってる時に書いた記事が好きだと言ってくれる人もいます)、色んなネタで書いたりもします。とにかく、日々ありふれたもので、ブログが書けてるんです。一応は。それが今回みたいなレポート課題だったとします。特に “所感を述べよ” という内容の時にはより真価を発揮するでしょう。つまりは感想文を書けばいい訳ですから、ブログと何ら変わりません。そして、課題と言うからには何らかの題材を与えられる訳ですよ。普段から、その辺に転がっている石を拾って何か工作できないかなーくらいの気持ちでブログを書く私にすれば、ネタもらえてるだけ書きやすいものですよ。何ならもらえるネタは、授業の課題になるような良質なものですから、言うなれば石ころを拾ってたらいきなりダイヤの原石を渡されるようなものですよ。だから、私は今回の課題をこなすのに、「何書けばええんじゃ…」という精神的苦痛をほとんど味わうことなく課題をこなすことが出来たと思うんですね。

 自分の考えを長々と書くことに慣れている人は、自分の意見・考え・所感などを述べるレポート課題をこなすのが精神的に楽になると思うのです。時々、レポートの書き方について書かれた本を目にします。私はそういう本を読んだことがないので、何も言えないのですが、本に書かれた内容とか、優れたレポートとかをそのまま倣って書くだけではなく、何度も何度も文章を書き、それに慣れることの方が、より効果的に自分なりの思考を表現する力が身につくんじゃないかなと。今回の課題をこなしながら、そう思いました。

 

 あと、1番大事なことを言い忘れてました。ブログを書くことでレポートを書くのが楽になることと、優れたレポートが書けることは比例しませんので、悪しからず。何せブログは片手間ですからね。身につく力も片手間相応のものだということです。

真の「知識」とは -「豆知識」と「うんちく」-

 最近、勉強が忙しくて息つく暇もない日々を過ごしています。ただ、勉強することも悪いことではないなと思うことも増えてきました(そうでもしないとやってられない!なんてことは思っていません)

 つい先日、授業の課題の一環で、明治大学文学部で教授をなさっている齋藤孝先生の書いたコラムを読みました。一言で感想を言えば、大変興味深いものでした。ありきたりな感想ですよね。でも、今回の「興味深い」という感想は、何も思うところがなくて、何とか「興味深い」を絞り出したのではなく、今まで触れたことのない視点で語られたものであったため、私の語彙力では「興味深い」と表現するしかなかったのです。どのようなコラムだったかと言うと、「私の教科書観」と題され、文字通り齋藤先生自身の教科書観が述べられたものでした。そのなかで、1つ気になった箇所がありました。それは、齋藤先生が教科書の存在意義に関連して、「知識」とは何かに言及した箇所です。

 斎藤先生は、コラムのなかでこんなことを述べておられました。

 教科書とは何か。それはこの国を担う次の世代に、強制してでも身につけさせるべき絶対に重要な知識を凝縮したものだといえます。

 教科書は、そのほかの参考書や書物と同列のものではありません。言うまでもありませんが、教科書には国による検定があります。それを絶対視して崇めなさいということではなく、いい加減な知識を教科書として出版することが許されない仕組みになっている点こそが大事なのです。つまり学校という場で最低限学ばなくてはならない知識と、それに基づいて生徒個々人が涵養する判断力の「基準」となるべきものが教科書だということです。

あの膨大な量の教科書に記される「知識」はすべて日本人が身につけるべきものだということです。これは、昨今批判されている日本の「詰め込み教育」を容認するかのようにも読めてしまいます。

 しかし、齋藤先生の主張はそうではありませんでした。

 知識とはネットワークです。そこで重要になるのが「知識の母体」ともいえる基盤です。それがあってこそ、インターネットで検索をしてさらに知識が膨らんでいく。つまり知識のネットワークの要となる「島」がしっかりと存在し、そこにいろいろな知識が寄り集まってくるのです。

(中略)

 その「知識」とは、暗記して済ませられるようなものではありません。知識に基づいてそれらを組み合わせ、自分なりにまとめる。そういう、歴史の読解力といった力のことです。

(中略)

 ~、歴史とはただ年号や史実を暗記するものではなく、知識を基盤としながら自分なりに論理立ててまとめていくことが重視されるべきだということです。

教科書に記された「知識」はすべて「暗記する」ものではなく、「身につける」べきものだというのです。その上で「知識」は相互に連関性を持たせることによって、さらに寄り集まるのだと。

 

 これを読んだとき、私の頭をよぎったものがあります。それは「豆知識」と「うんちく」です。この2つはほとんど同じものを指す言葉です。ですが、それぞれの言葉が与えるイメージは少し違いませんか?私の感覚ですが、「うんちく」の方が少し聞こえが悪い印象です。そのような印象の違いを考えたとき、「うんちく」は会話のなかで、しばしば話の腰を折りながら披露されることが多いのではないかと思います。対して、「豆知識」はあまり本筋とは関係ないところで唐突に披露されるので、話の腰を折ることも少ないのではないかと思います。つまり、「うんちく」は話の邪魔をしうる知識で、「豆知識」は話の邪魔をしえない知識だと思うのです。何が言いたいのかと言うと、「うんちく」の方が知識同士の連関性がより強いものに感じられるということです。

 別に「豆知識」がいらないというのではありません。ただ、知識のネットワークという観点で考えたときに、「うんちく」の方が知識としてのあるべき姿に近いのではないかと思うのです。とは言え、話の腰を折るような「うんちく」を披露すること自体は、そもそもあまり好ましくないかもしれませんけど。