tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

紙切れと言えどカネはカネ

令和になって変わる事は色々ありますが、

そのひとつに紙幣の変更がありますね。

新紙幣の顔は、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎でしたかね。

慣れ親しんだ英世、樋口、諭吉ともお別れです。

(決して、使えなくなる訳ではないのですが。)

 

何か感慨深いものを感じなくもないですが、

あんな紙切れにそんな価値が付くのも何だか不思議ですね。

 

そう考えるようになったきっかけがあります。

と言うのも、先日授業で興味深い話を聞いたのです。

 

その授業は、金融について扱う授業。

そこでは、

お金の特集が組まれたテレビ番組を、

映像資料として使用して授業していました。

 

その映像は、

この現代で

まさに今、お金が流通されようとされている、

アフリカのとある部族にフォーカスしたものでした。

 

その部族は、狩猟・採集によって、

その日暮らしの生活を送っています。

人によって、取れる・取れないが当然ある訳ですが、

森の奥にあるその集落では、

皆で取り分を共有して暮らしているそう。

 

その集落の人にとっては、分け合うのは当たり前。

独り占めしても軽蔑されるし、

取り分を分けて偉そぶっても軽蔑される。

映像では、これを徹底的に横並びの社会と表現していましたね。

 

だからこそ、お金が流通しにくい社会でもある。

徹底的に横並びの社会は、経済格差が概念的に存在しない

言い換えれば、富を蓄積する概念がないのです。

 

きっとお金が流通する前はどこでもこうだったんです。

羨ましい世界ですね。

なんのしがらみもない。平和的な世の中じゃないですか。

欲望にまみれた現代社会がいかに生きにくいか、つくづく感じます。

 

ですが、幹線道路沿いの集落になると、その様相が大きく変わります。

その日暮らしだったはずの部族の者が、貨幣の使い方を知り、

それによって、長期的な生活を視野に入れはじめたのです。

 

映像のなかには、

自分が採集した木の実を集落の人に分ける前に、

その一部を外から来た商人に初めて売るという人が映されていました。

その集落に貨幣を流通させたのもその商人です。

 

それはそれは後ろめたそうな面持ちでした。

それもそうです。

今までの慣習を破ってまで、

自らの富を蓄えようとしているのですから。

 

その人は貯めたお金で、家族に便利な道具を買うと言っていました。

誰のためでもなく、集落全体で1つの利益だったはずなのに、

お金の登場により、個人の利益が優先になってしまい、

集落全体の利益は二の次になってしまったのですね。

 

今までは、集落の皆で共有しながらその日暮らしをしていたはずなのに。

 

貨幣の導入は、確かに便利で豊かな暮らしを実現しました。

しかし、導入された貨幣は、

人々が本来持っていた人間性も豊かにしたのでしょうか。

 

「何かを得るには、何かを犠牲にしなければならない」

なんて言葉をよく聞きます。 

 

私たち人間の暮らしも色々なものを犠牲にして、

発展してきたのでしょうね。

 

なんだか難しい哲学(?)ですね。

守備範囲の広さが仇になるという話

皆さんは10連休どう過ごしました?

私は10日間のうち9日バイトをしました。

正直、ブログを書く気力さえもなくしそうでした。

もとより、勉強のやる気は最初の3日で灰燼に帰しましたが。

 

たまには、フリーダムにだらだら思ったことを書くことにします。

(いつもフリーダムであることに、この時の筆者は気づく由もない。)

 

ここまでのほとんどが “持論展開” とかいう

訳の分からないカテゴリ付けをした記事ばかりだったので、

たまには趣味のことでも書いてやろうと

意気込んで書き始めてみるのですが、

どうもうまくまとまらないんですよね。

 

今までも何度か言っていますが、

私は自分自身が多趣味人間だと思っています。

浅く広く、時々深くというところでしょう。

 

その深い分野というのが、

いわゆる趣味にあたる部分だと思うのですが、

何せ1つのことについて語れないのがまた不思議。

 

なぜなんだろう。なんて考えていてもわかるはずもないですね。

とりあえず、紹介も兼ねて趣味ぐらいの深さにあるものをちょっと挙げてみますね。

 

ガンダム

仮面ライダー

ウルトラマン

スーパー戦隊シリーズ

・アニメ

・スポーツ

YouTube

・ラジオ

・料理

・城、史跡、名勝巡り

・ブログ

 

こんなとこですかね。

改めて書き出してみるとすごいですね。(笑)

このジャンルの振り幅。どうしてこうなったのか自分でも理解できません。

 

すぐに思いつくだけでも、これくらいですから、

おそらくはまだあるんじゃないかと思ってます。

こんなに手広くやってますから、

そりゃあ話が脱線するわけですよ。(笑)

 

引き出しが多いに越したことはないと思うのですが、

あまりに多いのも考えものですね。これからは自重します。(誰得)

 

さて、こうやってだらだら記事を書いていると、ふと頭をよぎることがあります。

それは、「趣味って詰まるところ、何なんだろう。」ということです。

 

例えば、ゲーム実況者なんてのは、

自分の趣味であるゲームを、

実況しながらプレイしている様子を投稿して、

それでお金を稼いでる訳ですよね。

 

つまり、趣味が飯の種になっているわけですよ。

 

そこまでなると、果たしてそれは本当に趣味と呼べるものなのでしょうか。

 

はたまた、私のように、あれやこれやと手を出している人も、

それら全てを趣味と呼んでいいものか、考えものです。

 

さらに言えば、旅行が趣味だと言う人だって、

そんな毎週・毎日のように旅行している訳でもないですよね。

アニメが趣味だと言う人は毎日観てる人だっているでしょうに。

 

うーん、趣味とそうでないものの線引きは難しいですね。

結局は本人の判断なのでしょうが。

 

おっといけない。

また訳の分からないカテゴリをつけるところでした。

結局、私は言葉の使い方に話が行き着くようですね。(笑)

それだけ日本語が難しいと思っているのもまた事実。

 

 そうなると、私の本当の趣味は「日本語を勉強する」ことなのかもしれませんね。

 

(…いったいこの人は何を言ってるんだろう。)

心中お察しします。私も同感です。

 

今日はこんなところで勘弁してください。(笑)

傍観者の戯言

本来であれば予約投稿するつもりの記事があったのですが、

今日は見送ることにします。というのも、少し気になることがありまして。

ふとTwitterを見ていると、何やら物騒な言葉がトレンド入り。

気になって検索していると、どうやら大阪で飛び降り自殺を図った人がいた模様。

 

この一連の流れで、私が気になったのは、

飛び降りの瞬間を収めた動画が何本も拡散されていること、

そして、それを見た人たちの反応です。

 

動画を投稿したツイートのリプ欄には、

「不謹慎です。やめてください。」

「よく撮影なんかできるな。」

というような批判が多く見受けられます。

 

その一方で、当該ツイートのRT・いいね の伸びはなかなかのもの。

 

批判的な考えを持つ人もいる一方で、

実際の状況がどうだったのか気になる人が、一定数存在することの証拠でしょう。

事実、私も調べてしまったうちの1人。

 

私は、そんな物々しい現場に出くわしたことがないので、

想像以外で話すことはできないのですが、

動画なり、写真なりを撮影している人を一方的に非難する人の心境が、

どうしても100%理解することができないのです。

さすがに私は現場にいても、そんなことをする度胸もないのですが。

 

撮影者全員に拡散の意図があるわけではないという、

推定無罪のような前提で話を進めていますが、

眼前の珍しい光景を撮影してしまうのは、ある意味自然なことだとは思いませんか?

 

決して、彼ら彼女らを弁護したいわけではありません。

しかしながら、私はただ頭ごなしに一方的に非難するのにも違和感を感じたのです。

 

自殺現場を撮影するなんて不謹慎だという考えにも大いに賛成です。

ただ、撮影者に悪意があったわけではなかったはずだ

ということも忘れてはいけないと思います。

 

その点、“自殺の撮影会” とも言えるような異様な光景に、

違和感を覚えることができた人も多くいたようです。

 

ただ現場に居合わせて、考えなしにカメラを向けた人たちと、

その光景の異様さに気づいて声を上げた人たち。

まるで、ストリートライブをたまたま見かけたギャラリーと、

その様子を批評するコメンテーターのような、

そんな関係に見えなくもないですね。

(この例えこそ不謹慎かもしれませんが、他意はないのでご容赦ください。)

 さらに言えば、それを拡散する人は、メディアといったところでしょうか。

 

この話題がこんなに持ち上がることは滅多にないでしょう。

数ヶ月前に私が住む近くでも飛び降りがありましたが、

ここまで大きな騒ぎにはなりませんでした。

まぁ、人口規模などが大きく違うので当たり前なのですが。

 

自殺どうこうという話になると、どうしても脳内を流れる歌があります。

それは、あいみょんの『生きていたんだよな』です。 

 


あいみょん - 生きていたんだよな 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

 既にネット上では、この曲の歌詞を引用して、

カメラを向ける野次馬たちを批判する人も見受けられます。

 

あいみょんを敬愛する人間として、その行動は間違いだとここで言わせてほしい。

確かに、歌詞の中には自殺現場に群がる野次馬たちを、

皮肉を交えて表現する箇所があります。

しかし、その部分はあくまで情景描写であり、

あいみょんが伝えたいメッセージとは全く異なると思うのです。

 

この曲の真意はそんな野次馬たちを揶揄するところにはないと思います。

この曲は、飛び降り自殺を図った女子高生が一体何を思って飛んだのか、

それを推し量り、彼女なりに表現したものでしょう。

 

もし、今回のケースにおいて、あいみょんのこの曲を引用するなら、

すべきことは、野次馬の非難ではなく、

飛び降りした人の気持ちを推し量ることではないでしょうか。

 

この曲には、野次馬を非難する歌詞もなければ、

女子高生に同情したりするような歌詞もありません。

 

最近、コメントなどの一部のみが切り取られて報道されることに

不快感を示す芸能人も少なくないですが、

軽率に、不用意に、他人の言葉を借りるべきではないでしょう。

 

自分が思っていることは、自分の言葉で表現してなんぼです。

他人の言葉に逃げるのは、好ましい行為ではありません。

 

話が脱線してしまいましたが、

 

実際に現場に自分がいたらどの立場になるだろうか、というのを考えてみました。

 

今回の私はかなりややこしい立ち位置になるので、

少なくとも、前述のどれにも当てはまりそうもありません。

 

強いて名を付すとしても、単なる傍観者というところでしょう。

傍観者にしては、少々口を出しすぎている気もしますが。

まぁ、傍観者の戯言だと思って読んでください。

運とかいうゴミステ

さぁ新時代、令和になりましたね。

元号が変わるというだけなのに、世間はさながら年越しの様相です。

渋谷のスクランブル交差点はお祭り騒ぎでしたね。

 

そんなわけで、今回は新年にまつわる持論を展開してみようと思います。

(なお、新年は迎えていない。元号が変わっただけである。)

 

あ、ちなみにこれが記念すべき10回目の投稿です!!

————

 

皆さんは “占い” をどれだけ信じますか?

 

時と状況によりますが、

私は基本的にあまり信じません

 

信じる時というのは、

何かの勝負事の前とか、

何かしらの一大イベントがある前に、

験担ぎのつもりで信じてみたりします。

 

まぁ、心細いときは何かにすがりたくなるみたいな、そんな感じです。

 

さらに言えば、結果が悪いと信じません

当たり前です。

いい結果ならまだしも、悪い結果まで信じて何になるんでしょう。

 

と、占いにある種の嫌悪感を抱く私ですが、

こうなったのにも、いくつか思い当たる節があります。

 

1つには、私の誕生日が関係します。

 

こんな経験をしたことがある人はいませんか?

 

「この本では、この誕生日は○○座だけど、こっちを読むと△△座なんだよなぁ。」

「めざまし占いは何日~何日が何座かがわからないから、当てにならないじゃん。」

 

ズバリ、私がこれです。

そうなんですよ。

めざまし占いが信用ならないんですよ。(笑)

 

私が幼少の頃、「超星神グランセイザー」という、
星座をモチーフにした戦士たちが戦う特撮作品が放送されていました。

きっと皆さんは知らないと思いますが(笑)

 

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超星神グランセイザー 全12戦士

幼いながら薄々その事に勘づいていた当時の私は、

どの戦士を応援していいかわからずにいた事を覚えています。

 

そうやって、星座占いがあまり信用できない環境に

生まれながら存在した私ですが、

星座占いに限らず、占いを信じないのは、

そのせいだけではありません。

 

それは、

運は運以外の要素でどうにか補えると考えている

ということが関係します。

 

麻雀を例に説明しましょう。

と言っても、やらない人からしたら、全くわからないとは思いますが。

 

何度かやったことがある人にはわかると思いますが、

ぶっちゃけ、麻雀ってのは運ゲーです。

だって、いつ何の牌が手元に来るかわからないんですもの。

 

ただ、運ゲーなのにも関わらず、

麻雀にも強い人弱い人がいるわけです。

その違いを一言で表すことは難しいですが、

あえて言うなら、

場の流れを読むのが上手かどうかが大きく関係します。

配牌の流れから自分の手を変えて待ち牌を考えるのが、麻雀の定石です。

 

つまり、運ゲー運要素をできるかぎり薄めて

運ゲー自分の能力値・経験値を持ち込んで勝負するんです。

 

私は、実生活も同じだと思っています。

 

時としてうまくいかないこともありますが、

そういうときは、少しやり方を変えたりして、

麻雀で言えば、狙う役を変えたりして、

自分に有利な待ちを作っていこうと試行錯誤をします。 

 

そうすることで、運というステータスが

実生活にあまり関わらない

ゴミステ(ゴミ同然の役に立たないステータス)になるのです。

 

もし、どうしても流れに乗れないとなれば、

今度は、自分の損害をいかに最小限にするかを考えます。

ロンを打たないように、慎重に行動するのです。

 

もともと、リスクを冒すことがあまり好きではない私は、

この作業が結構好きです。

どうしたら自分が損をせずに済むか、

しょっぱくてもいいから、どうにか少しでも利益が出せないか、

それを考える時間が、ゲームの攻略法を考えているようで楽しく感じるのです。

 

当然ですが、

そんなことをせずに生活している人がほとんどだと思います。(笑)

 

でも、占いの結果だとか、ツキの良し悪しで一喜一憂する時間が、

私には非常に勿体なく感じるのです。 

 

それも含めて人生だと言われれば、私に反論の余地はありませんが、

それにとらわれず、自分の思い通りになるように

配牌の流れを読みながら生活するのも

また一興ではないでしょうか。

民度=○○?

民度がどうとかって最近よく聞きますが、

それっていったい何を示す尺度なんだろうって、

ふと思ったんです。

 

皆さんは、民度 って何を示してるものだと思いますか?

 

私には意味・定義がよくわからないので、

あえて辞書やネットで調べずに、

具体例から考えてみることにします。

 

・人がかろうじてすれ違えるほどしかない幅の歩道を自転車で通る

・自転車が車道の右側を走る

・人間が車道の左側を通る

・自転車は並走

・店の前で嘔吐

・夜道を複数人で大騒ぎ

・駐輪場がテトリス状態

・コンビニを駐輪場代わりにする

・他人の自転車のカゴにごみを捨てる

・車が水たまりをよけず、通行する人に水をかける

・夜道でやたらカップルがいちゃつく

・駐車場を車が爆走

・赤信号で動けない交差点に無理やり車を突っ込む

・店に無許可でストロボ撮影

 

さて、こんな人たちが住む場所の民度はどうでしょう?

もし、低いと思ったのであれば、私と同じ認識ですね。(嫌かもしれませんが。)

 

ここで挙げた一例は、私が体験、もしくは見聞きしたものです。

 

と、まぁこんな感じで 民度” についての認識を共有できたわけですが、

私には新たな疑問が噴出しました。

 

それは、民度 という言葉は、

人間に対して使うのか

地域・居住地に対して使うのか

という疑問です。

 

私は、先ほど例を列挙する際、

「こんな人たちが住む場所の民度

という表現を使いました。

つまり地域に対して使ったのです。

 

一方で、例示したような行動をとる人を見て、

民度低いな」

なんて口走ることはありませんか?

それはつまり人間に対して使ったということになります。

 

意味や定義が不明確な言葉は

使いやすいようで使いにくいですね。

 

この世の中、時代が移ろうにつれ、

新たな言葉も生み出されていきます。

そうして生み出された言葉は、

人が見様見真似で使うことで伝播し、普及します。

意味・定義より、使い方が先に伝播するのです。

 

"マジ卍" や "エモい" なんてのがいい例でしょう。

 

"民度も最近生まれた言葉でしょうね。

だから正しい使い方を知る人が少ないのです。

 

もちろん、正解が1つとは限りません。

この言葉は、どちらに使っても正しいのかもしれません。

 

ただ、どこかで聞いただけの言葉を

何も考えず、不用意に使ってしまうのもいかがなものでしょう。

 

自分は果たして本当に正しく日本語を使えているのか

自分は間違った日本語を使っていないか

 

そんなことを時々考え直してみるのも、いいのではないでしょうか。

言葉の緩急

ここ数年、ラップってすっごい流行ってますよね。

何なら、名の知れた声優さんだってユニット組んでやってるじゃないですか。

 

私が思うに、

あれは、とてもとても高度な言葉遊びです。

 

私も言葉遊びが好きなんですよ。ラップに限らず。

といっても、私がよくやるのはそういう高尚なものじゃなくて、

単なる言葉の綾あそびですけどね。

と聞いても、当然皆さんが知らない遊びだと思います(笑)

 

詰まる所、

わざと誤解・語弊を生むような表現をつかって会話を楽しむ

って寸法です。(ちなみに考案者は私で、周りでこの遊びをやっているのも私ひとりです)

 

これね、綺麗にハマると気持ちいいんですけど、

なんせ難しいんですよ。

 

わざと表現の曖昧性を残して言葉を選ばなければいけないんですから。

 

話が少々横道に逸れますが、

私が敬愛する歌手であるあいみょんが、

以前テレビ番組に出演した際に、「官能表現が好き」という話をしていました。

というのも、私たちが想像する官能表現とは少し捉え方が異なるようで、

あいみょんにとっての官能表現は、

別の言葉を使ってそのものを表現すること

だそうなんです。

 

 

結局、私が何が言いたいかというと、

日本語が本当に上手な人って、意図的に表現に緩急がつけられる人なんだ

ってことです。

 

ある場面では、オブラートに包んだような、婉曲で含みを持たせた表現を使い、

また、別の場面では、ズバッと核心を突くような的確な表現を使う。

 

これまで挙げた例で言うと、

前者が官能表現、後者がラップといったところでしょうか。

 

あいみょんが書く歌詞なんてまさにそうでしょう?

 

時には自分の奥底の感情をうまく隠しながら、

時にはド直球に感情を爆発させ

って。

 

とてつもない極論を言うようですが、

いい曲とふざけた曲の両方が書ける人が最上級に日本語能力が高い歌手なんですよ。

 

私が考える、最もそれにあてはまる歌手はファンキーモンキーベイビーズです。

 

ただ純粋に当時からのファンだっていうのもあるんですが。

 

それにしても、彼らのというか、

作詞を主に担当していたDJケミカルのワードセンスが猛烈に強烈なんですよ。

 

ファンのなかには、SKBソングなんて言う人もいるような、

いわゆるド下ネタの曲があるんです。

それが不思議なもんで、下品に聞こえないんですよ。全く。

…いや、そんなこともないかも(笑)

 

まぁ、でも、それも言わば官能表現の1つですからね。

 

そんな曲を作る一方で、皆さんも聞き覚えのある名曲だって作れるんですよ。

今さらですが、すごくないですか?ファンモン。

 

私も官能表現を極めたいです!!すごく!

 

そのためのステップの1つが、冒頭にも書いた言葉の綾あそびです。

これは、言葉の緩急のうちの "緩" の練習だと思ってやってます。

 

皆さんもやってみてください。面白いですよ。

 

ちなみに、"急" を極める簡単な方法は、学術的な本をたくさん読むことだと思います。

あれは的を得た表現の宝庫ですから。

 

なんにせよ、日本語運用能力にはいろんなベクトルがありますね。

こんなに勉強しがいのある母国語は、よその国にはないんじゃないですか?

ネコとサルと仏

先日、父方の祖父が亡くなりまして、

通夜・葬儀をはじめとした諸々に行ってきました。

一応、私も遺族にあたりますので。

 

3~4年ほど前に、同じく祖母が亡くなった際もそうだったのですが、

檀那寺の住職が、まぁ話が上手なんですよ。見事なまでに。

言葉の選び方もさることながら、間の取り方も上手いんですよね。

なんでも、大学で教鞭を振るってらっしゃるとのこと。

(そのせいで大学生である私が狙い撃ちされるのも事実ですが)

 

 

その住職が、通夜の説法(という表現が正しいのかはわかりませんが)で

こんな話をしておりました。

 

というのも、坊主の説法というのは、

本来は民衆にその教えを説くことが目的です。

その住職もご多分に漏れず、仏教(浄土真宗)の教えを説いてくださったわけです。

 

その住職は、

浄土真宗の「他力本願」の教えを「ネコ」「サル」でこのように説明したのです。

 

それぞれの子どもが移動するとき、

子ネコは、親が首の後ろを甘噛みして、親に捕まえられて移動します。

対して子ザルは、親の背にしがみついて、親を捕まえて移動します。

 

要するに、

子ネコは親を信用していて、どこかで落とされる心配をしていない。 

だけど、子ザルは親が信用ならなくて、落とされないようにしている。

 

真宗では、死んだ魂は最初は必ず地獄に落ちていきます。

仏様はその途中でその魂を捕まえて、

どこかで落とすことなく、必ずお浄土へ連れて行ってくださる。

これを真宗では「他力本願」と言います。

 

亡くなった○○さんもそうです。

地獄に落ちていくところを、仏様に捕まえられてお浄土へ行ったのです。

 

皆さんが先ほど唱えた「南無阿弥陀仏」が、

いわゆる「私は仏様の教え、他力本願に従います」という意思表示です。

 

これを唱えている皆さんは、安心して仏様に捕まえられてください。

 

と、まぁこんな風に。

 

ほぇ~。と思ったでしょう?

そうなんです。あまりにわかりやすすぎて、語彙力を失うんですよ。(笑)

「言い得て妙」とはまさにこのことだと思いましたね。

 

遺族一同も目を丸くしていました。

私の家族もみんな納得。

 

果たして、住職がその説法をどれだけ事前に考えていたかはわかりませんが、

いずれにしても、なんという教授力でしょうか。

 

そういう人が寺の坊主に適任なんでしょうけど。

 

それにしても、

ぜひ、うちの大学で講義をやってもらいたい。

絶対取るから、その授業。(笑)

 

最後に、

住職がその説法の締めくくりに言った言葉を忘れないうちに書き残して、

この記事を終わりにしたいと思います。

 

人は、「もし明日死んだら」という話をよくしますが、

「死ぬ」ということは、遅かれ早かれみな平等に訪れます。

だから、そんなことを言ってもどうにもならないんですよ。

どうせ皆死ぬんですから。必然なんですから。

 

そんなことより、

「もし明日の朝もちゃんと目が覚めたら」という話をしましょうよ。

私にしてみたら、明日も目が覚めることの方が、

よっぽど ”もしも” の話ですよ。

 

皆さんは、「もし明日もちゃんと目が覚めたら」どうしますか?