tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

墓穴

 暑くなったり涼しくなったり、体調管理が大変な時期になってきましたね。

 

 さて、先日せっせとネットニュースを見ていますと、1つ気になる記事が。

乃木坂46メンバー、献血未経験!」

みたいな見出しの記事でしたかね。まぁ、大事なのは中身なんで、見出しなんかどうでもいいです(そうではない)。

 ここではあまり言ってませんでしたが、実は私、大学で献血推進活動を行うサークルに所属しています。なので、献血に関する記事は非常に関心がある所であります。今回取り上げたその記事も、そういった志向から閲覧したものでした。

 そのニュース記事の内容というのが、大変興味深いものでありました。現在、日本赤十字社は「みんなの献血」と題して、乃木坂46を広告塔に、多くの人の献血参加を呼びかけるキャンペーンをしています。そのニュース記事では、メンバーたちと、とある記者との記者会見でのやりとりがどうやら目をつけられたようでした。ざっくり要点だけを言うと、献血をしたことのない乃木坂メンバーが、献血への協力を呼びかけるのはいかがなものか。」という内容でした。

 私は疑問に思いました。というのも、私が所属するそのサークルにも献血ができないメンバーが多くいたために、何故彼女たちが批判を受けていたのか皆目見当もつかなかったのです。そのニュース記事の主張は献血をよく知らない人が、献血推進をしてもよいのか。と言うよりできるのか。」ということだと1人の読者たる私には感じました。その意見には概ね異論ありません。献血に限らず、それをよく知らない人に勧められても、興味を持つことはあまりありません。私が異を唱えたいのは献血していない=献血を知らない」という論理展開に対してです。確かに、記者会見に関する記事をその他にいくつか読む限りでは、乃木坂メンバーの対応からは献血に対する理解ができているとは決して言えません。ですが、彼女たちを批判するニュース記事を書いたその記者の方にも、献血への理解はできていないように私には見えます。(一応真面目に)献血推進活動に取り組んでいる私に言わせればまさしく醜い泥仕合です。

 何事も、そのことを知るにはまずやってみることだと言われます。百聞は一見にしかずというところでしょう。ですが、献血に限って言えば、やってみたいと思ってもできない人がいるということを、忘れてはいけません。献血の大前提は「健康な血液を寄付する」ということです。そのため、献血の前には多くの問診を受けます。さらに、献血には年齢・体重制限があります。これらはすべて、血液を受け取るレシピエントのみならずドナーの健康をも守るためのものです。

 今回の件に当てはめれば、おそらく乃木坂メンバーは体重制限に引っかかってしまうのではないかと思います。(見るからに体重が足りてないでしょうから…。)ですが、イメージ戦略等の関係から、メンバー自身の口から自らの体重に言及することもできず、結果として、記者たちに誤解を与えるような曖昧な受け答えをせざるを得なかったのではないかと推測できます。

 私がこの記事で、そのニュース記事を取り上げたのは、単なる批判が目的ではありません。それだと、ただ悪口を言うだけの寒い人になってしまいますから。この記事の真意はそうではなく、人間の説得力の根拠とは何かということです。おそらく、献血に明るくない人は、そのニュース記事を読んで、「いくら知名度の高い乃木坂とは言え、献血したことない人に行けって言われたって行く訳ないよな。」と安直に思ってしまうと思うんです。ですが、多少なりとも理解のある人間からすると、むしろ説得力がないのは、そのニュース記事の方だと思ってしまうのです。「いや、献血できない人が献血呼びかけて何が悪いんだ。自分は献血できないけど、何か協力したいって思ってる人はそうするしかないじゃないか。」と、私なんかは思うわけです。

 普通のネットニュースの記事は「一般向け」つまり「多数派の人向け」に書かれるものだと思います。だとすると、私が取り上げたそのニュース記事のライターは献血したことない人から勧められても献血に行かない人」が一般的な考えだと捉えていると言えます。それに当てはまる人からすれば、そのニュース記事は非常に説得力があるように見えますが、そこに当てはまらない人は逆に説得力を少しも感じません。さらに、そのニュース記事の痛いところは、それを批判する可能性がある相手が、その道に明るい人だということです。つまり、その記事よりも、さらに専門性の高い批判を受ける可能性があるということです。せっかくの批判的思考が、より専門性のある言説によって、さらに批判される訳ですから、説得力は激減します。その道に明るくない人は、より信ぴょう性の高い主張をする側を信用するでしょうから、これは必然です。

 何かを主張するときには説得力がある発言をしなければなりませんが、力点の置き所を間違うと全く響かない主張になってしまうということがこのニュース記事からわかりました。一見すると的確に見える批判でも、多角的な見地から考察できていなければ、それはかえって自分の墓穴を掘ることにもなりかねません。相手を埋めるつもりだった墓穴に自分が入ってしまわないように、自分の主張にも細心の注意を払わなければいけませんね。

 

 

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A New Hero, A New Legend. ~平成ライダー布教活動その2~

 今回からは個別の作品について、私が視聴して感じたことを長々書いていきます。

 この記事のシリーズのコンセプトとしては、作品の順番は気にせず、書きたい作品から書いていきたいと思っているのですが、やはり最初は平成第1作の「仮面ライダークウガ」がいいかなと思ったので、今日は仮面ライダークウガについて私なりの考察を書いていきたいと思います。

 

 なお、記事の性質上、ある程度のネタバレを含む内容となっています。私に言わせれば、ネタがバレていても面白いのが平成ライダーのいいところでもあります。ですが、私個人の価値観を押し付けるわけにもいきません。ネタバレが嫌だという方にはブラウザバックを推奨します。

 

 簡単なあらすじについては

 

tairo0079.hatenablog.com

 

でも紹介しています。

記事の目次からクウガの記述にも飛べるので、該当箇所だけでも読んでからこの記事を読むと、より雰囲気が伝わるのではと思います。ぜひご一読ください。

 

*目次

 

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内容考察

作品の主題

 私が思うに、この作品の主題は、「“力” とは何か」ということだと感じました。

 ひょんなことからグロンギと戦うことになった雄介。相手が怪人とは言え、自分以外の何かに拳を振るうことに少なからず抵抗感を持ち続けていました。

 第2話の「見ていてください!これが俺の……変身!!」という雄介のセリフ。これがこの作品において非常に大きな意味を持ちます。突然手にした大きな力に戸惑いながらも、その力は “誰かを傷つけるためのもの” ではなく “誰かを守るためのもの” だと考えるようになります。誰かといる時には、いたって能天気な行動・言動ばかりの雄介ですが、誰もいないところで1人苦悩する姿が、特に終盤にかけて目立ちました。

 また、自分が持つ力がグロンギと同質のものだということがわかってくると、その力自体にも恐怖を抱き始めます。しかし、雄介は誰かが笑顔になれるなら自分の身がどうなろうと構わないと考え、椿に電気ショックを打たせるために自らの意思で心臓を止めるという暴挙に出ます。その結果、黒の力を手にします。そうして、雄介にとってクウガの力が何なのかがダグバとの戦いを通して結論されるのです。

 第48話でのダグバとの最終決戦は、ファンの間では “悲しき肉弾戦” と呼ばれたりもします。クウガとの戦いを心底楽しむダグバ、ダグバとの戦いを心底嘆き悲しむ雄介。2人にとっての戦いはまるで正反対のものです。いくら相手が諸悪の根源たる存在であっても暴力をふるうことを嫌う雄介の優しさと、そこまでの強大な力をつけなければならなかった苦悩を垣間見ることができます。

 

ダグバとクウガ

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ダグバvsクウガ 「悲しき肉弾戦」

 ダグバとの関連で私がもう1つ注目すべき点だと考えるのは、ダグバとクウガの色です。ダグバとの決戦を前にして、雄介は禁断の力だとされる黒の力(アルティメットフォーム)を手に入れます。対して、グロンギの最高実力者、ン・ダグバ・ゼバは白い姿をしています。普通は逆だと思うんです。正義の味方が黒で、諸悪の根源が白。色だけ見ると、どっちがどっちなのかわかりません。色の違いが何を表現したものなのかは人によって解釈が違うと思います。クウガが持つ力がダグバと同質であり、クウガの持つ力が必ずしも正義であるとは限らないということを表現したというのが私の解釈です。

 

クウガの立ち位置

 「仮面ライダー=孤独な戦士」というのは昭和ライダーにおける前提であり、テーマの1つと言われています。実際、平成ライダーであるクウガは様々な人たちと協力しながらグロンギの撲滅を行っています。

 しかし、私にはクウガないしは雄介がとても孤独に戦っているように感じました。確かに、桜子の解読がなければ力の使い方もわからないし、一条さんから譲り受けたバイクがないとグロンギと戦うこともできない、榎田さんが開発する武器がなければ倒せなかったグロンギもいたし、椿がいなければ、体内のアマダムの存在すらも、さらには金の力、黒の力を手にすることもありませんでした。その一方で、人間が人間の力だけで倒すことのできたグロンギは作中ではドルド1体だけでした。技術を結集させて倒すことができたとみてとることもできますが、やはり私には両者が立つ位置はまるで違うように感じました。雄介は少なからずそれを感じていたはずなのです。雄介は誰よりも孤独だったのです。その点については、昭和ライダーの作品の中での立ち位置を継承した点でもあると思います。共闘する2号ライダーがいなかったことも大きいと思いますが、平成ライダーにおいて、1人孤独に戦ったライダーは後にも先にもこのクウガだけです。

  さらに、雄介がいかに孤独に戦ったかを最も効果的に表現したのは、最終話である第49話だと思います。この話において、雄介の姿は最後の数十秒にしかありません。ダグバ戦で精神を激しく病んだ雄介が旅に出たというのが一般に言われている見解です。私自身もこれには賛同します。しかし、それだけではないとも思います。第49話では、主要な登場人物たちが雄介に対して各々思いをはせる場面がメインです。ここにこそ、雄介の孤独が表現されているように私には感じられるのです。この場面で、登場人物たちは「雄介は今どこで何をしているんだろう」と思いをはせていきます。この演出が、私には彼らがあくまでも雄介のいわば “関係者” であり、戦士として戦い抜いた雄介とは一線を画した何かを感じました。

小結

 ここまで、私自身の見解を述べてきましたが、本作に通じて言えることは、TVシリーズ全49話を全て観ただけではよくわからないということです。逆を言えば、私がここまでの内容を述べることができたのは、ある程度の予備知識があったからで、さらに言えば、観賞のあとにも気になった事柄については自分で調べたりもしています。前述の内容考察、この後ろに書き添えてある基本的な用語解説にも、本編に登場しない言葉が多く出てきます。この記事のシリーズに「平成ライダー布教活動」と付している以上、私がこの記事(もしくは今後書くであろう同様のタイトルをつけた記事)を執筆する目的は、仮面ライダーにあまり興味がなかった人にも興味を持ってもらうことにあります。とすると、この「仮面ライダークウガ」を考察してわかったことは、この作品は 仮面ライダー初心者” には少々ハードルの高い作品であるということです。この作品からは、平成ライダー」シリーズは単なる子ども向け番組ではないということは十二分に伝わるのですが、それゆえに話の展開がよくわからず、作品を楽しめないというおそれがあります。申し訳ないですが、この記事の特に内容考察の部分は作品が楽しめるような補助的役割を持たせることはしていません。あくまで、この記事は私が「仮面ライダークウガ」という作品を観て感じたことを書いただけのものです。その点についてはご了承いただいたうえで、もし皆さんがこの作品をご覧になったのであれば、ぜひその感想を語らいましょう。

 次回はあまり仮面ライダー作品になじみがない人でも、もう少し気軽に観て楽しんでもらえる作品について内容考察していけたらと思います。候補としては、「最初からクライマックス」なライダーか、「2人で1人の仮面ライダー」か、そのあたりを考えています!

 

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用語解説

仮面ライダークウガ

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仮面ライダークウガ

 五代雄介が変身する戦士で、グロンギから市民を守るために戦う。赤のクウガ(マイティフォーム)が基本フォームであり、相手に合わせて、青(ドラゴンフォーム)緑(ペガサスフォーム)紫(タイタンフォーム)超変身する。見た目の変化だけでなく、それぞれの姿ごとに何かしらの能力が超能力的に上がっている。また、赤のクウガ以外には専用武器があり、形状の似たものや同じような用途のものを持つとそれに変化。ただし、雄介が変身解除すれば元に戻る。クウガは、グロンギに刻印を打ち込むことで倒すことができ、赤のクウガ以外の専用武器はそのためのものでもある。1度グロンギの攻撃によって生死をさまよったことがあり、椿が治療のために行った電気ショックによって、碑文にも記されていない新しい金の力(ライジングフォーム)を手に入れる。しかし、当初は力が強大すぎるために30秒という時間制限があり、これを過ぎると白い姿(グローイングフォーム)に戻ってしまい、変身解除後から2時間再変身が不可能だったが、ガドル撃破直前の2度目の電気ショックの後は時間制限がなくなった。グロンギとの最終決戦である対ダグバ戦に際して、禁断の黒い力(アルティメットフォーム)を手に入れた。見た目のモチーフはクワガタムシだといわれている。

マイティフォーム / ライジンマイティフォーム

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マイティフォーム

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ライジングマイティフォーム

 赤い姿のクウガであり、クウガの基本フォームである。碑文には「邪悪なる者あらば 希望の霊石を身に付け 炎の如く邪悪を打ち倒す戦士あり」とあった。戦闘スタイルは武器などは使わない肉弾戦。スピード・パワーのバランスが良いので、まずはこのフォームに変身して相手の特徴をつかみ、有効と思われるフォームに超変身する。右足により強い力が宿っており、グロンギを倒す際は、その力に雄介の107番目の技を組み合わせた、ライダーシリーズ伝統のライダーキック(技名は「マイティキック」)を使ってグロンギに刻印を打ち込む。そのため、刻印を打ち込むための武器は必要としない。金の鎧を纏うライジングフォームになると、右足の脛付近に金の装甲が現れ、右足の力が強化される。金の戦士の中では1番力が大きいと思われる。

ドラゴンフォーム / ライジンドラゴンフォーム

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ドラゴンフォーム

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ライジングドラゴンフォーム

 青い姿のクウガ。碑文には「邪悪なる者あらば その技を無に帰し 流水の如く邪悪を薙ぎ払う戦士あり」と記されていた。全体的なパワーはかなり低下しているものの、超能力的な高い跳躍力・瞬発力を持つ。戦闘スタイルはドラゴンロッドを使った棒術がメイン(これが雄介の何番目の技なのかは不明)。一撃必殺というより、スピードを活かして手数勝負で敵を倒す。ドラゴンロッドはパワー不足を補うものという位置づけと思われる。ライジングフォームになると、ドラゴンロッドの両端に刃のようなものが現れる。必殺技はドラゴンロッドの連続攻撃で敵の体に刻印を打ち込む「スプラッシュドラゴン」。

ペガサスフォーム / ライジンペガサスフォーム

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ペガサスフォーム

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ライジングペガサスフォーム

 緑の姿のクウガ。碑文には「邪悪なる者あらば その姿を彼方より知りて 疾風の如く邪悪を射抜く戦士あり」とあった。大きな特徴は、鋭敏化した感覚である。戦闘スタイルはペガサスボウガンを使った射撃・狙撃スタイル。遠距離攻撃主体の敵や空を飛ぶ敵、姿を消す敵に対して有効な姿で、鋭くなった視覚・聴覚で索敵し、狙撃する。ライジングフォームになると、ペガサスボウガンに、ドラゴンロッドと同様の刃のような造形の銃身が現れる。必殺技はペガサスボウガンから発射される空気弾によって遠距離から刻印を打ち込む「ブラストペガサス

タイタンフォーム / ライジンタイタンフォーム

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タイタンフォーム

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ライジングタイタンフォーム

 紫の姿のクウガ。碑文には「邪悪なる者あらば 鋼の鎧を身に付け 地割れの如く邪悪を斬り裂く戦士あり」とあった。ある程度のスピードを犠牲にしながらも、どのフォームにも勝る強靭な鎧を持つ。戦闘スタイルは、タイタンソードを使った斬撃が主体。ちょっとやそっとでは怯まない強靭な体で敵に接近し、強烈な斬撃で敵を倒していく。ライジングフォームになると、タイタンソードの先端にこれまでと同様の造形の刀身が現れる。また、タイタンソードの複数生産も可能。必殺技はタイタンソードを敵の体に突き刺し、刻印を打ち込む「カラミティタイタン」。

グローイングフォーム

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グローイングフォーム

 白い姿のクウガ。この姿になるときは、肉体的または精神的なダメージを負っているときである。初変身の時は、雄介のクウガとして戦うという決意が弱かったためにこの姿になったと考えられ、実際に決意を固めたあとの変身ではマイティフォームに変身できていた。身体能力は非常に低いが、マイティフォーム同様に右足の攻撃(「グローイングキック」)により敵に刻印を打ち込める。

 

アメイジングマイティフォーム

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アメイジングマイティフォーム

 2度目の電気ショックの後に変身可能となった姿でマイティフォームが黒くなっている。作中には1度しか登場しておらず、力の詳細は不明だが、ライジンマイティフォームの時には右脛にしかなかった装甲が両脛についていることから、右足だけでなく両脚の力が強化されたと思われる。碑文にはこの力についての記述はないと思われる。禁断の黒い力の前段階的な位置づけ。ダグバの前に戦ったガドルはこの力でないと倒せなかった。必殺技は両脚でのキックで相手に刻印を打ち込む「アメイジングマイティキック」。

アルティメットフォーム

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アルティメットフォーム

 黒い姿のクウガで角が4本に増える。碑文には「聖なる泉枯れ果てし時 凄まじき戦士雷の如く出で 太陽は闇に葬られん」とあったが、雄介は「聖なる泉」を枯れ果てさせることなくアルティメットフォームに変身し、またしても伝説を塗り替えた(ちなみに1度目はライジングフォームの誕生)。究極の闇をもたらす者などと言われ、最終決戦であるダグバ戦でのみその姿を披露した。ラスボスだと言われても違和感がない見た目をしている。戦闘スタイルはマイティフォームのような肉弾戦。また、ダグバと同様に、あらゆる物質に対して発動できる超自然発火能力を持つほか、本編には登場していないが、ダグバと同等の能力を持っていると考えていいだろう。

 

グロンギ

 古代から蘇った怪人たちの総称。ゲゲルと称して人間を殺戮する。各個体にはグロンギ同士で呼び合う名前がそれぞれにあるが、作中では、未確認生命体(しばしば “未確認” と省略される)という呼称で呼ばれ、出現が確認された順に数字を付して “未確認第○号(または番号のみ) と呼ばれる。当初はクウガグロンギの区別がなされていなかった関係で、クウガも未確認第4号と呼ばれる。彼らは独自言語(通称 “グロンギ語”)を使う。それには規則性があり、現代語への翻訳も可能。さらに、グロンギ内には階級があることが本編から確認できる。中・上級のグロンギたちはクウガ同様に周りのものなどを自分の武器に変えることができ、クウガ同様自らの姿を変えられる個体も存在。また、グロンギたちは人間の姿になることもでき、社会に紛れるために現代日本語を習得するなど、知能も非常に高い。人間を “リント” と呼び “ゲゲル(=ゲーム)” と称して、自分たちで条件を設けた上で大量殺人を行う。

グロンギの名前

 グロンギの名前は「○・△△△・□」という形式(ex.ン・ダグバ・ゼバ、ゴ・ガドル・バ)であり、1文字目の「○」が階級にあたり、いわゆる個人名は「△△△」、「□」は種族を表していると思われる。作中では個人名である「△△△」で呼びあっている。名前の最初の1文字目が という順に、階級のみならず強さ・知能などの諸能力が上昇すると思われ、ゲゲル成功により昇格が可能とみられる。ン集団はダグバのみであり、グロンギたちの事実上の統率権はラ集団にあるとみられる(現代の象徴天皇制と同様と想像するとわかりやすいか)。また、ゲゲルに参加していないために詳細は不明だが、武器の製作を行うヌ集団の存在が確認できる。そして、種族を表す「□」については、いくつか分類が曖昧な個体もあるが、およそ「バ=昆虫類及びそれに近似する虫類」、「グ=鳥類及びそれに近似する動物」、「ダ=哺乳類」、「ギ=魚類及び水生・海洋生物」、「デ=植物類及び菌類(キノコを含む)」「レ=爬虫類」のように分類できる。

 人間はグロンギのことを一般に「未確認生命体」と呼び、存在が確認された順に番号を振って「未確認(生命体)第○号」という呼称を用いている。人間態とグロンギ態とを区別するため、人間態のグロンギを「B群」とし、「未確認B-○号」と呼称を使い分けている。また、当初はクウガグロンギの区別がされていなかった関係で、番号にはクウガも含まれる(グローイングフォーム:第2号マイティフォーム:第4号)。

ゲゲル

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ゲゲルの腕輪 / グセバ

 グロンギが行う大量殺人。ゲゲルは「ムセギジャジャ(プレイヤー)」が1人ずつ行うとみられ、何らかの規則性に基づいて実施される。ゲゲルの目的は自らの階級の昇格であると思われる。ゲゲルにもいくつかの種類があると思われ、作中では、ゴ集団が行うゲゲルを「ゲリザギバス・ゲゲルセミファイナル・ゲーム)」と呼ぶ。これを成功させた者は、「ザギバス・ゲゲル(ファイナル・ゲーム)」でダグバと対決する。ズ集団・メ集団のグロンギたちはゲゲルを行う際に、殺したリントを数えるための腕輪(グセバ)をしており、腕輪が破壊されると、最初からやり直すというルールがあると思われる。ズ集団・メ集団は殺害したリントの数を自己申告していたが、終盤になると、ドルドが「バグンダダ(カウンター)」と呼ばれる謎の道具でゴ集団の殺害リント数を数える役割をしている。ゲゲルに成功すると階級を昇格でき、作中でガルメがゲゲルを成功させてズ集団からメ集団へと昇格している。

 

アマダム

 アークルに埋め込まれている霊石。同質のものがグロンギの体内やゴウラムにもある。変身解除しているときは雄介の体内に存在している。椿いわく、アマダムと体内の神経伝達組織が複雑に絡み合い、身体機能に大きな影響を及ぼすという。雄介の人間超越的な驚異的回復力もその影響。ゴウラムのアマダムと雄介のアマダムは互いに共鳴していて、雄介がゴウラムの必要を感じると、ゴウラムがやってきて雄介のバイクと融合する。また、アマダムは雄介の意思と密接に結びついていると思われ、雄介が強くなりたいと感じれば、アマダムから新たな力が発揮されていく。また、電気エネルギーが強く影響するようで、椿が治療のために雄介に施した電気ショックによって、アマダムから与えられる力が強くなる。この傾向はグロンギにも同様で、ゴ・ガドル・バ は電気エネルギーによって、クウガと同様の金の力を手にしている。

 

ゴウラム

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ゴウラム(写真上)

 九郎ヶ岳遺跡から発掘された石片が集まったもの。巨大なクワガタムシの形をしている。ゴウラムの頭部には古代文字で「馬の鎧」になると記されており、後に雄介が警視庁(一条)から譲り受けたバイク(トライチェイサー2000ビートチェイサー2000)と融合する(融合後はそれぞれトライゴウラムビートゴウラムと呼ばれる)。雄介の体内にあるアマダムと同質の霊石が埋め込まれている。周辺の金属を吸収してゴウラムの姿になっているようで、初登場後に一度だけ石片の状態に戻っていた。トライチェイサーと融合後は石片に戻ることはなくなったが、トライチェイサーの方が金属疲労により劣化が激しくなっていた。また、トライゴウラム・ビートゴウラムは、搭乗中のクウガライジングフォームに超変身すると、ゴウラム側にも金の装甲が追加で装備される。なお、グロンギもバイクのことを「鋼の馬」と呼んでいた。

 

主な登場人物

人間

五代雄介

演:オダギリジョー

 

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五代 雄介

 2000の技を持つ男を自称する冒険家(フリーター)で、出会う人に手作りの名刺を配っている。2000年までに2000個の技を習得するというのは、小学生時代の恩師との約束。雄介自身は2000の技をすべて記憶しているだけでなく、自分が渡した名刺が何個の技を持つときに渡したものだったかも正確に記憶している。1番目の技は “笑顔” で、2000番目の技は “クウガの変身” 。第1話でグロンギによる長野県九郎ヶ岳遺跡襲撃に偶然出くわし、発掘されたベルトを巻き、未確認生命体第2号(仮面ライダークウガ グローイングフォーム)に変身。続く2話で、ベルトの力を正義のために使うことを決意し、赤い姿の未確認生命体第4号(クウガ マイティフォーム)に変身。以降、グロンギから市民を守る正義の味方として戦いに身を投じていく。小学校時代の恩師から教わった右手のサムズアップが癖となっている。

 

沢渡桜子

演:村田和美

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沢渡桜子

 城南大学考古学研究室の研究員。作中では修士論文の執筆に取り組む姿も見られることから、修士課程の大学院生だと思われる。雄介とは以前からの知り合い。九郎ヶ岳遺跡から発掘された遺物に刻まれた古代文字の解読をして、雄介の力が何なのかを学術的に解明しようと尽力。彼女の研究室の同僚であるジャンは、同様に発掘されたゴウラムの調査を行っている。

 

一条 薫

演:葛山信吾

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一条 薫

 グロンギによる一連の事件の調査の関係で、長野県警から警視庁へ出向となった警察官。警察組織の内通者的な立場で雄介の戦いを全面的にサポートする。雄介が乗るバイクも一条が警視庁上層部と掛け合って渡したもの。高身長イケメンであるが、仕事に一途すぎて恋人ができず、上司や昔の知り合いなどにいじられる場面も多々ある。

 

榎田ひかり

演:水島かおり

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榎田ひかり

 科警研の研究員。未確認生命体に有効な武器の開発を行うほか、城南大学の研究員であるジャンと共同でゴウラムの科学的調査も行う。仕事熱心な性格で、徹夜で作業する姿が度々描かれる。1人の息子を持つシングルマザーで、作中では家庭を顧みない行動を彼女の母に咎められる様子が多く描かれる。

 

椿 秀一

演:大塚よしたか

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椿 秀一

 関東医科大学付属病院の医師。一条とは古くからの付き合い。彼の紹介によって、雄介を医師としての立場からサポートすることになる。雄介の体内に霊石 “アマダム” があることを発見したのも椿である。プレイボーイな一面もあるが、根は真面目。

 

グロンギ

バラのタトゥーの女(ラ・バルバ・デ)

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バラのタトゥの女(ラ・バルバ・デ)

 未確認第B-1号。数多いるグロンギたちを取り仕切る役割をしている、人間の女の姿をしたグロンギ。作中でグロンギ態は見せていない。公衆の面前にも関わらず、グロンギ語で口論をしていたグロンギたちを「ここではリントの言葉で話せ。」と言っていさめたことがあり、以降ファンの間では、相手が何を言っているかわからないときにこのセリフがスラングとして使われるようになった。クウガというよりは一条の因縁の相手であろう。

ズ・ゴオマ・グ

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ズ・ゴオマ・グ 通常体

 未確認第3号。序盤から終盤まで登場しているグロンギだが、ズ集団であることから、下級のグロンギである。そのため、自分より上位のグロンギたちに軽蔑され続けており、それらを見返そうと様々な手段を使って、自らの力の強化を図っている。最後は打倒ダグバを画策したために粛清され、爆散しなかった死体は椿によって解剖された。その結果、クウガグロンギが同質の存在であることが科学的に証明されることとなった。

ゴ・バダー・バ

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ゴ・バダー・バ

 未確認第41号。グロンギのなかで唯一バイクに乗る、赤いマフラーが特徴的な個体。作中では、クウガとバイクで張り合う姿がたびたびみられた。クウガの乗るトライチェイサー2000はスペックではバダーのバイクにかなわなかった。しかし、一条から新たにビートチェイサー2000を授かり、バダーを見事撃破した。ファンの間でも人気が高い(?)グロンギ。モチーフについては、バッタ説と初代1号ライダー説が存在する。

ゴ・ガドル・バ

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ゴ・ガドル・バ 格闘体

 未確認第46号。クウガと同様に自らの姿を変えて戦うことができるグロンギ。また、変電施設を襲撃し、体内のアマダムに電気エネルギーを蓄えたことで、クウガと同じように金の鎧を身に纏うことができるようになった。ダグバ戦までのグロンギの中で最もクウガを苦しめた個体であろう。

ラ・ドルド・グ

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ラ・ドルド・グ

 未確認第47号。バルバ同様、グロンギの統率を役割とするラ集団のグロンギ。人間態で活動するのがほとんどで、ゴ集団のゲゲルの補助的役割もしている。自身がゲゲルに参加している様子は本編からは見られないが、他の個体の粛清なども担当しているようである。

ン・ダグバ・ゼバ

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ン・ダグバ・ゼバ

 未確認第0号。究極の闇を齎す(もたら・す)者とされる。すべてのグロンギを超越する超能力的な力を持つ。作品に登場するグロンギを復活させたのもダグバであるとみられており、グロンギの封印を解くというのも、ダグバが持つ能力の1つであると思われる。その他、作中で見せた能力(と思われる力)としては、テレポート、超自然発火(パイロキネシス)、精神干渉などである。また、最終話にクウガとダグバが変身解除した状態での肉弾戦から、両者に力を封印する能力があったとも考えられるが、クウガが心身のダメージによって変身状態を維持できないことから、双方の攻撃によるダメージによる変身解除とも考えられるので、詳細は不明。

 

 

 

*記載のないグロンギの名前・画像については以下のリンクの参照を推奨する。

matome.naver.jp

 

*現在、東映の公式YouTubeチャンネルでは、各平成ライダーの第1話、第2話を無料で視聴できます。

 

 

 

 

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火気厳禁

 私は負の感情を表に出すことをあまり好まない。そのため、それを内に溜め込むことが多い。しかしながら、最近はそれでは収まらないほどの負の感情が湧き上がってしまっている。原因は既に判明している。「人間関係」である。私も、ようやく現代人的な悩みを持てるようになったかと若干喜ぶ一方、それがストレスとして私を強く苦しめている。その相手というのも、もともと苦手な相手であったのを、どうにか冷たく接しすぎないよう、私が出来うる限りの譲歩をしてきた人間なのである。そんな私からすれば、その彼もしくは彼女の行動は全くもって不徳の致す限りであると強く感じる。恩を仇で返された気分とでも言おうか。ただ、その恩も、私の一方的で個人的事情に基づく、不要の気遣いによるものであったのだが。だがしかし、私は憤っている。憤怒。おこ。おっと、これは失敬。つい取り乱してしまった。話を戻すと、最近の私は、負の感情という名の有毒ガスを内に溜めこんでしまっているのである。

 「馬鹿につける薬はない」とよく言うが、おそらくその彼もしくは彼女にも、どんな聖人の爪の垢を煎じて飲ませても、効果はまったく無さそうである。その崇高なる自尊心をへし折ることは私にとっては造作もないが、夏目漱石先生の『こころ』に登場するK氏のように、それが原因で自殺されてもそれはそれで困る。と言っても、その彼もしくは彼女は、K氏のような思慮深い人間でもないのだが。だからこそ、溜まるのはただのガスではなく、有毒ガスなのだ。溜まっていくそのガスによって、私はゆっくり、そして確実に心身を侵されていく。

 とある漫画に出てくる台詞に「あまり強い言葉を使うなよ。弱く見えるぞ」というものがある。その言葉には強く同意するが、今の私はそんなことは構わないから好きなことが言いたいのである。せっかく言論の自由が保障された国にいるのである。その権利を存分に使わせていただきたい。もうお気づきだろうが、たった今、このブログは私の心の声の吐き溜めとなってしまっていることをどうかお許しいただきたい。時々こうしてガスを抜かないと、何がきっかけで大規模なガス爆発を起こすかわからない。仮に起きたとして、どの程度の範囲に影響を及ぼすことになるかは皆目見当もつかない。周りの人を巻き込むのはいささか気が引ける。だから、こうしてブログの記事として私の負の感情という名の有毒ガスを昇華させることによって、その蓄積量をどうにか減らしていこうとしているのである。と、ブログをガス抜きの有効な手段とすることを、自分の中で正当化する理由を作り出すことに成功した。

 どうだ。私が弱く見えるか。いささか小さい人間にも見えるだろう。見えたなら見えたでいい。だが、私とて人間。腹が立つことはある。それで小さいだのなんだの人を偉そうに評価している奴の方がよっぽど小さい人間だと思うが。なんてくだらないことを考えていると、私のどこかすぐ後ろの方からも少量の有毒ガスが漏れ出ていく音がした。

 

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何者

 元来、私は嫌いな人間に対しては非常に、そして非情に攻撃的な人間であった。だが、その性格は中学時代にして既にほぼ消滅した。嫌いな人間を攻撃しても何の解決にもならず、それどころか先生に目をつけられて穏やかな学校生活が送れないことに気づいたのだ。そこから、私は嫌いな人間には “攻撃” ではなく “防御” を行うようになった。 “防御” と言えば聞こえはいいが、平たく言えば回避行動のことだ。しかし、攻撃との対比にもなるし、語感もいいので、この言葉を使うことにしよう。

 しかし、人間は愚かな生き物である。私もご多分にもれず、高校時代も中学時代と同じ過ちを繰り返した。まだ若かったと言えばそれだけ。だが、中学時代のそれとは少し性質のことなるものだった。中学時代のそれは、嫌いな人間に対する個人的な嫌悪に起因するものだったのに対し、高校時代のそれは、友人が受けた屈辱に対する憤怒に起因するものだった。故に他人を攻撃した。否、友人のためだと言い訳をして、怒りに任せて他人を攻撃したと言う方が正確だろう。いずれにせよ、私はまたしても他人を攻撃した。そして、私はその後の高校3年間の生活をほぼ棒に振った。たった1つの行動で、ただでさえ弱かった校内における私の社会的地位はなくなった。少なくとも私はそのように認識している。それ以来、2度と——いや3度と言う方が正確か——攻撃を行うことはなかった。そして、現在に至る。

 大学生になって2年と少しが経つが、私は他人への攻撃的な感情が薄れると同時に、 “嫌いな人間” という判定がかなり甘くなった。そして、無意識のうちに “嫌いな人間” を “苦手な人間” と大別するようになっていた。それに気づいたのもごくごく最近のことである。しかし、それらに対して防御行動を行うのは変わらない。今さらだが、私の言う “攻撃” が、力に任せた実力行使などではないということを弁明しておきたい。というのも、その土俵で戦ったとしても、勝ち目がないのは自明だと思っているからだ。我ながら、自己評価の低さには自信がある。悪く言えば悲観的、よく言えば現実主義というところだろう。勝ち目のない勝負は好きではない。だが、勝ち目がなくても挑まねばならない勝負もまた存在することは、わざわざ言及するまでもない。しかし、できることなら私が優位に立てる土俵で勝負を挑みたい。だから、実力行使はしない。その結果、嫌われる。実力を行使しない攻撃は陰気な方法にならざるをえないから当然のことである。これが現在まで攻撃行動に出なかったもうひとつの理由だ。

 私が嫌いになる人間ははっきりしている。一般常識(モラル・マナー・エチケットも含む)が圧倒的に欠如している人間、自分の価値観(特に私と異なる価値観)を押し付けてくる人間、何かにつけてマウントをとってくる人間、自分を客観視できないまたは自己評価が異常に高い人間、1度でも、物理的・生理的・本能的・絶対的に合わないと(一方的であっても)感じてしまった人間。これらが、私が「嫌い判定」を下しうる可能性のある人間たち。しかし、これだけでは「嫌い判定」は下さない。これに加えて、私に「こいつはもうどうしようもない」と判断されている状態で、私もしくは私の友人に危害・不利益・不快感を与えた人間となることで初めて私に嫌われることができる。裏を返せば、私は、自分が上に列挙したような評価を他人に与えている以上、自分の振る舞いにも最大限気を配るようにしている。

 ここで噴出しそうな批判として、「お前は人間関係を理屈で考えているのか」という意見があるだろう。その質問への私の答えはノーだ。ここまで述べてきたことは、私が無意識にしてきたことを、数年をかけて自分で分析して導き出した1つの答えなのである。人間関係は理屈ではない。少なくとも、大学生時点では理屈で人間関係を築くことに何もメリットはない、仮に理屈で築き上げた人間関係による人脈があったとしても、使い道はほぼない、というのが私の持論だ。私が仲良くしている友人たちは、私が仲良くしたい、私と仲良くしてほしい、その人と仲良くなりたい。だから仲良くしているという、それだけのことだ。私が真に言いたかったことは、人と仲良くなるのに理屈はいらないが、人を嫌いになるのに理屈が必要だということだ。

 このようにして、私はほぼ日常的に自己分析をしている。この記事は、本来私の脳内に繰り広げられる、議論にも近い分析作業の一部を記述してみたものだ。不思議なことに、この作業をしていると、いつも最終的に辿り着く結論がある。

「私は一体何者なのだろう。」

読者の皆さんはこの記事を読んで私が何者だと感じたのだろう。

また分析項目が増えた。

 

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請求書と領収書

 先日、亡くなった父方の祖父の四十九日の法要に行ってきました。例によって話の上手な住職の説教がこれまた凄まじく的を得ておりましたので、紹介させてください。前回の話が気になる方はこちらをご覧ください。

 

tairo0079.hatenablog.com

 

今回の説教も、真宗の教義上の特徴について説いてくださったのですが、これをタイトルにもある “請求書” と “領収書” という2つの言葉を使ったのです。

 真宗では、今回のような法要は供養とは言わないのだそうです。というのも、他宗派で言われる供養というのは、「私たちがお寺さんにならって読経しますので、なんとか仏になってください」という行為だそう。しかし、即身成仏を教義の1つとする真宗においては、死んだ人に仏となってもらうよう “請求する” のはおかしな話。なので真宗は供養をしないというのが基本スタンスなんだそうですね。そこで登場したのが “請求書” と “領収書” というわけです。

 住職が言うには、

 禅宗などの言う「供養」というのは、「私たちがお寺さんにならって、あなたのためにお経を読むので、どうかこれで成仏して(仏になって)ください」という、言わば “請求” なわけです。その時のお経というのは、私たちから亡くなられた方に対する “請求書” にあたるわけですね。

 しかし、真宗はそうじゃない。真宗では、亡くなられたあと、仏がお浄土に連れて行ってくださるんです。この前の時はこれを「ネコ」と「サル」で説明しましたかね。なので、この(四十九日の法要)ような法要を供養とは言いません。真宗は仏縁というのを非常に大事にします。なので、「私たちの御縁はあなたのおかげでできたものです。ありがとうございます。」という、言わば “領収書”になるんです。 それが、皆さんが先ほど読んでいただいた「南無阿弥陀仏」というものなのです。

 ということだそう。またしても唸る遺族・親族一同。

 私は、指導教員の先生が宗教について研究なさっている方なので、研究者という立場から真宗の教義を含め、様々なことを教わります。その一方、宗教者であるお寺の住職からも同様のことを教わる機会があります。あくまで研究成果の1つとして教える研究者と、一般の人の視点に立ってその教えを説く宗教者と、2つの視点から同じことを聞くことができたのです。無知な私にとっては、両者とも説得力のある言葉に聞こえました。だから何だと言われれば、それまでなのですが、大学で研究成果としての宗教を教わる機会が圧倒的に多かった私にとっては、この住職との出会いは非常に価値のある経験になったと思います。この奇妙な二項対立を私の中でどう併存させていくか、考える必要があるなと感じました。

疲弊

 今、俺の全身を駆け巡るのは圧倒的な倦怠感。しかし、それは断じて疲労ではなく疲弊。同じだろうと思いたい奴はそう思えばいい。だが、俺は疲労していない。疲弊している。いや、やっぱ疲労もしている。でも疲弊の方が大きな割合を占めている。なぜか、ということを考える前に疲弊と疲労の語感の違いについて俺なりの使い分けを説明しておこう。身体的な疲れを疲労、それに精神的疲れを含有すると疲弊に変容する。だから、俺はいま疲弊しているのだ。大事なことだから2回言った。

 本題に入ろう。俺はなぜ疲弊している。要因はいくつも思いつく。勉強に追われる日々。将来への一抹の不安。人間関係の負担。自分の時間がない苦痛。だから疲弊しているのだろう。換言すれば、これらが俺の精神を蝕み、そしてそれが疲弊という形で表出したのであろう。しかし、俺の精神のすべてが蝕まれたわけではない。だが、あくまでこれは俺の経験則だ。

 俺の精神状態には、疲弊の先にもう1つの段階があることが実体験として確認できている。それは理性の崩壊である。それ以上の説明はない。理性が崩壊するのだ。それだけと言えばそれだけなのであるが、俺がこの境地に辿り着くということは精神衛生状態が非常に悪化しているということでもあるのだ。そして、この境地は突然やってくる。疲弊は徐々に状態悪化が進むが、それが一定値になると急に理性の箍が外れる。だが、この期間が長く続くことはない。理性の崩壊は疲弊段階において解消されなかった悪い精神衛生状態を一気かつ強制的に解消すべく、半ば自然発生的、自動的に行われることであるためだ。この段階においても俺の精神のすべてが蝕まれたのではない。

 では、精神のすべてが蝕まれた状態とはどのような状態なのだろうか。または理性の崩壊の先にまだ何か段階があるのか。それは定かではない。一応、俺の記憶ではその先へは到達していないはず。ここで考慮すべきは「俺の記憶では」ということ。つまり、理性が崩壊する時点でまともではなくなるのだから、無意識的に何かをしていても把握できていない可能性が捨てきれないのである。これは恐怖でしかない。しかし、周囲の人たちからは俺が常人には理解不能な行動をしているという旨の情報は入っていない。したがって、俺が他人に実害を及ぼす行動には出ていないと言っていいだろう。また、俺自身にも不自然な変化はなにも起きていないので、俺がこの第3段階(仮)に到達したことはないと言っていい。俺の精神衛生がそこまで悪化したことがないことの証拠でもあろう。

 俺は、第2段階・理性の崩壊には自然発生的で自動的に到達すると言ったが、意図的に突入することもできる。と言っても、自然的な到達とは崩壊の具合が少し違う。どう違うかといえば、その加減が自分で調節できるかどうかというところだろう。意図的突入は調節が可能だ。さらに言えば、この記事も意図的な第2段階への突入行動だと言える。この記事の内容と投稿時間を見れば、普通の人の行動ではないのは自明だろう。

    最後にもう一度言っておく。俺は疲弊している。

御難渋に候

最近、多忙を極めておりまして、

ブログの執筆がうまいこと進んでいないこの頃であります。

 

ブログの中で触れたかどうかは忘れましたが、

私は、日本史を学ぶ大学生をしております。

 

今年から受講しなければならない演習の授業では、

日本の現代史・近世史・古代史の分野の論文を受講生たちが各自で読んで、

授業内で議論(意見交換)しなければなりません。

 

つい先日までが現代史分野だったのですが、本当に何を言っているのかわかりませんでした。

tairo0079.hatenablog.com

 この記事でも触れた通り、私は横文字が大の苦手です。

なので、専攻分野も世界史ではなく、日本史にしたのですが、

現代史分野というのも、やたらと横文字をお使いになる分野なのですね。

 

4週に渡って4つの論文を読みましたが、

横文字の使用頻度が凄まじいったらなんの。

その中でも「不在証明」と書いて、「アリバイ」とルビがふってあるのを見たら、

さすがに笑ってしまいましたよ。「いや週刊少年ジャンプか!!」ってね。

 

…失礼しました。

いやしかし、歴史の理解というのは難しいのですよ。非常に。

私は、近世史を専攻分野に据えておりますが、この現代史(ないしは近代を含めた近現代史)という分野、それ以外の分野とは一線を画する何かがあるような、言うなれば、厚い壁のようなものをひしひしと感じたのです。

 

歴史を学ぶ者が必ずといっていいほど通る、ある言葉があります。

「すべての歴史は現代史である。」

という言葉です。

 

どういう意味の言葉か。これには人によって様々な解釈がなされます。

 

近世史専攻の私が不用意にわかったような口を利くと、現代史専攻の方から、どこでどんな顰蹙を買うかわかりませんので、多くを申し上げることはやめにします。

しかしながら、この言葉を通して言えることは、

その時代の関心の方向によって、描かれる歴史は大きく異なっていくということでしょう。

 

私が日本近世史において関心のある分野は、当時の被差別身分の人々の生活です。理由を話すと長くなりそうなので、なるべく簡潔に述べたいと思います。

私たちの世代というのは、学校で「人権同和教育」というのを受けてきました。

差別が行われてきた時代があったことを理解して、今後そのような負の歴史を作らせまいとして行われてきたものです。

しかし、私はこれに疑問を感じていたことがあります。

同和問題の根本である部落と呼ばれていた地域の存在。その古くは中世以前にまでさかのぼります。「えた」「ひにん」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

この言葉、最近ではあまり使われなくなってきています。差別用語を教えるべきでないという風潮がどうやら広まりつつあるようなのです。

おかしいとは思いませんか?

差別の存在について理解させようとする教育を行う一方で、その実態については全く語られない。日本の教育の矛盾です。

だから、私は興味を持ったのです。なくすには知る必要がある。そう感じたのです。

 

確かに私が学ぼうとする分野は近世史と呼ばれるものです。しかし、その関心の所在は現代にある。

途中話が少し脱線しましたが、これが歴史が現代史だと言われる所以なのではないかと私は思うのです。

この言葉の解釈については私だけでどうこうできることではないので、どうかご意見いただければと思います。

 

と、いつも通り長々とだらだらと書いたわけですが、言いたいことは歴史を学ぶことは難しいということです。

 

どうも最近文系学部が蔑ろにされていると感じる節があります。

先日先生から聞いたのですが、私が所属する学部の今年度の予算が昨年度比で4割も削減されたらしく、学生のコピー代が学部の予算から捻出できなくなったそうです。

どうも政府の政策が関与しているそうですが、学業に支障をきたす政策があっていいものでしょうかね。まぁあまり言うとこの記事が消されるかもしれませんので、ほどほどにしておきますが。

一時期、「文系学部消滅説」がまことしやかに囁かれていましたが、そろそろ現実のものになるやもしれませんね。

科学技術の発展だけが社会の発展に貢献すると言われているような気がしてなりません。

時代の先見の明となるような革新的な研究が出ていないというのもまた事実なのかもしれませんが。

 

ん? 何を言っているかよくわからない?

それは、全部を頭で理解しようとするからです。

感覚的に理解してください。