tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

noteを始めたというお話

    お久しぶりです。

    突然ですが、noteをはじめました。理由は、創作意欲停滞の打破です。お察しの通り、ブログの更新が止まっていますが、その大きな要因は私自身の創作意欲の停滞にあります。友人かつ先輩ブロガーの某氏にもこの事を相談すると「疲れているのでは?」と言われました。確かにそうかもしれないのですが、それだけでもないような気もするんです。

    なぜ創作意欲が停滞したのか、その原因は不明です。ですが、まぁマンネリ化でしょうね。何気ないことを、取り立てて記事にしようと思う事が減ったんです。かねてから、私には三日坊主なところがある訳ですが、それがもろに表出したということです。実際、先出の某氏もブログの更新頻度の低下を悩んでいたそうなのですが、いくつかの媒体を併用することを思い付き、noteを始めたそうです。

    確かに、マンネリ化を解消する方法として、環境を変えることは有効かもしれない。そう思い、私もnoteを始めました。同じ記事を両方に載せる気はありません。どちらか好きな方で好きな事を好きなように書くだけです。そんな訳で、noteの方も良ければご覧ください。

 

 

note.mu

雑草魂

 先日、阿部慎之助選手の引退に際して長々と、そしていつになく取り留めのない記事を書きました。その中で上原投手の引退についても軽く触れました。実は、上原投手の引退発表の直後にも、彼に対する私の取り留めのない思いを綴った記事を1つ書き上げていました。個人的にあまりしっくり来なかったので、下書きのまま投稿せずにいましたが、思ったことをひたすら情動的に書いた阿部選手の記事よりは、いくらかまとまりがあるようにも思ったので、少し再編集して投稿しようと思います。

 

 球界最年長の投手である上原浩治投手が5月20日に突然の引退発表。世間を大いに騒がせました。彼の全盛期(渡米前)をテレビ越しに見ていた私にとっては、なんとも言えない気分にさせるニュースでした。小学校時代、地元の軟式野球チームで野球をやっていましたが、彼がいなければ私は野球を辞めていたと言っても過言ではありません。

 

上原浩治―闘うピッチャー魂 (シリーズ・素顔の勇者たち)

上原浩治―闘うピッチャー魂 (シリーズ・素顔の勇者たち)

 

 この本との出会いが、私の野球への向き合い方を変えました。

 当時の私は野球が嫌いでした。厳密には野球チームが嫌いだったのですが、当時の私にとってはもはや同義です。そんな時に彼の半生を描いたこの本を読んだのです。私の心を打ったのは、彼の考え方の根本となっている「雑草魂」という言葉です。雑草は邪魔扱いされて、踏まれたり、引っこ抜かれたりする。だけど、それでもしぶとく生き残ってると、いずれきれいな花が咲く。自分もそうやって、挫折を味わうかもしれないが、それを乗り越えていつか夢を叶えてやる。そういう考え方です。その言葉があったから、私はどれだけ嫌でも野球を辞めずに頑張れたのです。そういった意味で、上原投手は当時小学生だった私のヒーローでした。その後、上原投手はMLBで活躍し、所属チームの優勝にも大きく貢献しました。(スーパースターにこういう表現を当てはめるのは失礼にあたることを重々承知で、あえて言わせてもらいますが)雑草が大輪の花を咲かせた瞬間だと言えるでしょう。かく言う私はと言うと、中学校に進学後も軟式野球部に所属して、3年間野球に取り組みましたが目立った成績を残せず、燃え尽き症候群に肘の故障が重なり、そこで野球を辞めました。私自身は、野球で飯を食っていこうという気は全くありませんでした。なので、ある意味で、特にこの肘の故障というのは野球から身を引くいいきっかけになりました。

 後になって、心の底から野球が嫌いだった訳ではなかったというのがよくわかりました。本当に嫌ならとっとと辞めてるでしょうからね。先程も書いた通り、私が嫌いだったのは “野球をすること” ではなく “野球チームに身を置くこと” だったのです。大学生になった今では、野球ではなく、ソフトボールの同好会に所属して、ゆるゆる野球(に近しいスポーツ)をしています。何にも縛られることなくストレスフリーで体を動かせるのは非常に楽しいです。そうやって、今でもそれなりに野球ができるのは、あの頃嫌々ながらも真面目に取り組んだからだろうと思います。そういった点では、当時お世話になった皆さんには感謝しています。そして、野球を頑張る理由をくれた上原投手にも(かなり一方的ですが)とても感謝しています。

 

 皆さんには、人生のターニングポイントになった人はいるでしょうか。正直なところ、上原投手が私のターニングポイントになったかと言えば微妙なところです。ターニングポイントというより、価値観を変えてくれた人という言い方が正しいかもしれません。何にせよ、上原投手が幼い頃の私の野球観に大きな影響を与えたのは事実です。日本のエース・守護神として、そして世界の守護神として活躍された上原投手。彼のユニフォーム姿が見れなくなるのは寂しいですが、これまでの活躍はすべてのプロ野球ファンの心に刻まれていることでしょう。

 

 改めてお疲れ様でした。

 そして、ありがとうございました。

#ありがとう慎之助

 阿部慎之助。言わずと知れた日本球界の大スターの1人。今季は5月に上原浩治もユニフォームを脱ぎ、また1人2人と巨人、そして日本球界を支えた名選手たちが一線から退いている。言い忘れたが、私は幼い頃から巨人ファンだ。というのも、私の地元はドがつく田舎なので、プロ野球のテレビ中継を観ようと思っても巨人戦しか観られなかったのだ。加えて、よく一緒に野球中継を観ていた祖父も巨人ファンだった。だから、私が巨人ファンになったのは必然だった。

 これを言うと、同じく野球ファンの人には世代がバレてしまうが、私の幼少期の巨人には、当時のエースであった上原浩治東野峻、若手として台頭していた内海哲也を初めとした先発陣に、久保裕也越智大祐、M・クルーンといった救援陣を抱える厚い投手陣、さらに1番・高橋由伸から始まり、小笠原道大、A・ラミレス、李承燁の強力な中軸、そして彼を7番に置いた下位打線という、分厚い選手層が魅力の常勝軍団だった。

 そんな当時の巨人軍において、彼は埋もれていたという訳では決してなかった。入団当時の監督であった長嶋茂雄によって、早くから一軍での試合経験を積み、跡を継いだ原辰徳によって、さらに精神的支柱という役割も与えられ文字通りのチームの要として不動の地位を築いた。野球ファンの間では、“打てる捕手” の代名詞として彼の名前を挙げる者も少なくない。かく言う私もその1人。私が物心ついた頃の日本球界の捕手事情と言えば、古田敦也は全盛期を過ぎ選手兼任監督を務め、城島健司は渡米していて実際の活躍をリアルタイムで見る機会もないという状況だった。だから、私がリアルタイムで観てきた “打てる捕手” の最たる人物は彼なのである。

 彼は、数多くのドラマを私たちに見せてくれてきた。今なお語り継がれるドラマの1つで、私がリアルタイムでテレビ越しに目撃したエピソードがある。「牽制のサインを見落とした澤村拓一をマウンド上で一喝」というエピソードだ。今頃になってあれは体罰だからよくないとか訳の分からない批判をする輩もいるらしいが、あれは彼ら2人の関係性をよく示すエピソードとしても、多くの野球ファンの記憶に刻まれている。彼を語る上で、100人が100人この話題に触れるのではないかと感じるほど、私にとって深く印象的な出来事だった。先日の本拠地最終戦で、再びマウンド上の澤村拓一に詰め寄り、今度は帽子を叩くのではなく握手を交わしたそのシーンを、私は一生忘れることはないだろう。

 巨人ファンとして、私が巨人を語る上で欠かせない人物の1人。ここまで一気に書き切って、いざ読み返すと何とまとまりのない文章だろうと思う。だが、もはや直すことはしない。これが、私の彼に対する思いであるから。これを文字というものでまとめることなど、最初から不可能だったのである。それでも衝動的に書きたくなったのだ。そもそも、こんな長ったらしい文章など必要なかったのかもしれない。

 

 改めて、ありがとう慎之助。

この気持ち、まさしく愛だ

 最近少し「愛の鞭」を履き違える人がいると思うのは私だけでしょうか?少し前になりますが、Twitter上でプロ野球ファンのなかで若干バズってしまった動画があります。東京ドームでの巨人広島戦の試合前に、観客の1人が巨人から広島に移籍した長野久義選手を侮辱していたという動画です。その動画を撮影したのが阪神ファンで、場所がバックネット裏(かなりいい席)であるという点でも別の意味で話題になったりもしました。

 「愛の鞭」とはなんとも便利な言葉ですよね。 “私には愛がある!” と宣言すれば何言ってもいいんですもんね。なーんてふざけた事を整然と言ってる奴は今後二度と口を開かないで頂きたい。本当に愛があって相手のために鞭を振るう人と、愛があるとかこつけて自分の欲求を満たすために鞭を振るう人では、大きくその発言に違いがあると私は感じます。簡単に言えば “一喝” なのか “悪口” なのかという違いです。さらに言えば、発言の中に理性があるかどうかです。今回のような、自分が応援しているチームに調子が上がらない選手がいるという場合で考えてみましょう。優等生ファンであれば、「調子悪いかもしれませんが、頑張ってください!」というような激励をするでしょう。これは愛の鞭というよりはむしろをあげているとも言える行動です。一方で、私のように「今日の試合のあの場面のあのプレーはまずかった」というような偉そうなことを言う人もいます。選手からしたら「そんなことわかってるからいちいち口突っ込むな」と思うでしょうが、自分が好きなスポーツ、まして部活などで経験したことのあるスポーツの選手であれば、つい言いたくなってしまうものなのです。このように、愛するスポーツの選手に対して(一方的ではありますが)を打つ場合も少なくありません。

 さて、問題視すべきは「そんなプレーするなら二軍行け」とか「いない方がまし」などというような発言が見受けられる点です。どういうつもりで言っているのかわかりませんが、相手が一流選手であろうが誰だろうが、相手を貶めるような発言は喝を入れているとは決して言えません。鞭を打つと言うよりはただ人を好き勝手に殴っているだけです。某見た目が子どもで頭脳が大人な名探偵も、言葉は刃物だと言っていました。直接的であれ間接的であれ、特定の人を誹謗するような物言いは、いくらその人に愛があると宣言していても看過できるものではありません。

 私の感覚として、このような発言をしがちな人は「中にはこういうことが言える人も必要だ」と考えているような気がします。確かに、最近怒れない人が増えていることがしばしば取り沙汰されています。なので、他人にも厳しくなれる人というのは貴重です。ですが、何度も言うように鞭を振るうことと暴力をふるうことはまったく別の話です。気晴らしのように目についた人間を攻撃することは、いくらファンを自称する人間であっても絶対にすべきではありません。まして、球場に行って、決して安くはないチケット代を払って、試合が始まる随分前から客席に座って、それでわざわざ選手に悪口を直接言うなんて、損をしてるのはどっちなんだと思いますよね。だからと言って、家にいながらテレビやネットで試合結果を見て、ネットに選手の悪口を書き込むのも同等どころかそれ以上に悪質だと思います。思ったことを口に出すことは悪いことだとは言いませんが、その内容には少なからず注意を払うべきでしょう。まして、ファンを名乗るのであれば、その熱い思いをもっと別の形で表現することを考えないといけません。

 別の角度からその行為を指摘するならば、相手を貶めるような発言は、同時に自分も貶めていることにも気づく必要があります。自分は楽しいかもしれませんが、自分を見ている人がいかに冷たい視線で見ているか、もう少し客観視してもいいのかもしれません。まぁ、何にせよ愛は時に人を狂わせるのです。何かを愛するという気持ちを、たまには見つめ直すことも必要かもしれませんね。

現代日本におけるオタク排他主義的思想の蔓延

 私はオタクである。それ以上でもそれ以下でもない。しかしながら、この現代日本社会はオタクたる私にとって非常に生きにくい社会であると言えるだろう。私は、そんな社会においてもオタクであることを隠すつもりは毛頭ない。なぜならそれが私のアイデンティティの一部であるという自覚があるからである。しかしながら、“オタク” という言葉にはあまり良くない印象が必ずと言っていいほど付いて回るように感じる。一体なぜか。

 その理由として、オタクが非社会的存在であるというイメージが、日本人のなかに一般的な感覚として存在しているということが言えるだろう。オタクと聞いて想像されがちなイメージとして、盛り上がるポイントが理解不能コミュ障なのに喋り出すと止まらないかつ早口陰キャだけど集まると謎の団結力が生まれる  等々。総じて気持ち悪いと思われがちなのである。わからないではない。オタクは自分の好きなものに関しては見境がない。故に時折周りが見えなくなることもある。それが上のようなイメージを抱かれてしまう要因なのではないかと感じる。

 だが、考えてみてほしい。それはオタクにしか当てはまらないのか。例えば、スポーツならどうか。感覚的に、スポーツファンはアニメファンより社会性が高いと思われているだろうが、スポーツファンにしかわからないツボも当然あるだろう。なのに、アニメやアイドルを話題にしている時とは違って冷たい視線を受けることはない。なぜか。アニメやアイドルなど、あまり人と関わる必要がなく、自分のみで完結させられるコンテンツが好きな人ならば、コミュ障・陰キャなどといった特徴を持つことは珍しいことではない。逆に言えば、そのような人たち同士がアニメやアイドルの話で盛り上がっていることが気持ち悪がられるのだろう。それがスポーツなどのような、人と関わりを持たなければ成立しないコンテンツとの根本的な違いである。 “オタク” という言葉が与えるイメージには、このような因果関係の逆転現象が起きているのである。

 さらに言えば、 “オタク” と “ファン” という呼称の違いが、オタクに対する風当たりの強さを最もよく表していると私は思う。“スポーツファン” を名乗る人がいても “スポーツオタク” を名乗る人はいない。特定のモノ(分野とも呼べるだろうか)に対しての愛と情熱があるならば、それはオタクとしての十分条件を満たしていると言えるだろう。

  “オタク” は蔑称では断じてない。これを蔑称と同等のものとしたのは社会である。オタクが住む世界はオタクにしか作れないのか。歩み寄るべきは我々オタクの側ではなく非オタの諸君ではないのか。

 

 偉そうに講釈を垂れているこの記事を、所詮はオタクの戯れ言だと笑う非オタ諸君の姿が目に浮かぶ。

そうだ、君の個性の話をしよう。

 「個性的」そう呼ばれる人間が近くにいることはないだろうか。わたしの周りにも少なからずいる。なぜその人たちがそう呼ばれるのか、考えることがある。もっと言えば、 “個性” とは何かを考えてしまう。

 『僕のヒーローアカデミア』という作品をご存知ないだろうか。この作品は、 “個性” と呼ばれる生まれながらの「能力」を持つ少年少女たちが、それを活かして人助けをする “ヒーロー” と呼ばれる「職業」につくまでを描く物語である。主人公は能力を持たない “無個性” の少年である。それが、あるきっかけによって “個性” を持ち、ヒーローを目指すことになるというところから物語は始まる。

 こんな世界に住んでいれば、何と生きやすいことかと思う。最近では、面接試験でも自己アピールをさせられることがある。目に見える個性を持っていれば、どれだけ楽に自分を表現できるだろうか。まして、自分の “個性” に見合う職業を探すことに苦労もあまりないだろう。しかし、それができないのが、私たちの住む現実世界である。目に見える個性を持たないのに、眼に見える形で個性の主張を求められる。これがどれほど難しいことか、考えるのは容易であろう。「自分の得意なことを言えばいい」とアドバイスをもらっても、「自分ではこれが得意だと思っているけど、こんなことができる人なんていくらでもいるだろう」などと考えてしまうことはないか。これは実に日本人的考え方ではないかと思う。自分の強みは何か。自分は何が得意か。自分が他者より優れていることは何か。自分にしかできないことは何か。客観的に見出される絶対的な “個性” を持たない私のような人間にとって、それを求められる社会はどれだけ住みにくいだろうか。

    フィクションの世界観を、つい現実世界に持ち込んでしまうのが私の悪い癖だ。ないものねだりをしても仕方ないのは、頭では理解しているが、それでも羨ましいものは羨ましい。個性ほど不確実でかつ必要不可欠なステータスを、私は他に知らない。私の「個性」とは一体何だろう。自問自答の終着点が未だ見えることはない。

ハラハラ

    このご時世であるからして、様々な立場の人たちへの配慮というものを、もっと広範に考えなければならない。しかしながら、その配慮を強制させる傾向も、この世の中には生まれてきたように感じる。

    そもそも、その “配慮” というものは、ある種の特定の他者に対するリスペクトから起因するものではないかと思う。一口にリスペクトと言っても、言葉通り “尊敬” “敬意” という場合もあれば、少し飛躍があるかもしれないが “尊重” という場合もあるだろう。いかにせよ、配慮をすべき時点がいつであるかを間違うべきではない。

    さて、話を戻そう。ここで問題視すべきは、現代で巻き起こる “配慮の強制” とも言うべき現象である。最近では、セクハラやパワハラなど “○○ハラスメント” という言葉を用いて、社会における問題行動を批判する傾向が具に垣間見える。批判の対象が誰がどうみても “問題行動” であれば、私がここで取り上げる事はないが、わざわざ言及するのは、それが過剰ではないかと感じるからである。「ハラスメント」という言葉は本来的には「嫌がらせ」という意味の言葉である。嫌がらせと言うからには、意図的で悪意がある行動がこれに当てはまるはずである。それが、例えば “スメル・ハラスメント” ではどうだろう。体臭や口臭などのケアをしない人に対してしばしば批判的に用いられる言葉だが、そこに悪意や意図はあるのだろうか。これ以外にも様々な “ハラスメント” が近年誕生している。

 他者を慮るという行為は、日本という国においては、その国民性にも関わる点でもあり特に重要である。しかしながら、少しばかり思慮が欠けていただけで、嫌がらせなどと揶揄されてしまうのはいささか理不尽ではないか。無自覚・無意識であるものに対する批判ほど野暮なものは無い。いちいち目くじらを立てて、あれやそれやと文句を言うのはいかがだろう。グローバル化が進む中で、ハラスメントのみならず、様々な点において他者への配慮が今まで以上に必要な世の中になっている。しかし、それと同等に寛容さというものも必要になっているのではないかと思う。何でもかんでもハラスメントだと主張する “ハラスメント・ハラスメント” とも呼べる現代社会の傾向に、文化や国民性のさらなる発展・向上という未来は無いような気がしてならない。