ネコとサルと仏
先日、父方の祖父が亡くなりまして、
通夜・葬儀をはじめとした諸々に行ってきました。
一応、私も遺族にあたりますので。
3~4年ほど前に、同じく祖母が亡くなった際もそうだったのですが、
檀那寺の住職が、まぁ話が上手なんですよ。見事なまでに。
言葉の選び方もさることながら、間の取り方も上手いんですよね。
なんでも、大学で教鞭を振るってらっしゃるとのこと。
(そのせいで大学生である私が狙い撃ちされるのも事実ですが)
その住職が、通夜の説法(という表現が正しいのかはわかりませんが)で
こんな話をしておりました。
というのも、坊主の説法というのは、
本来は民衆にその教えを説くことが目的です。
その住職もご多分に漏れず、仏教(浄土真宗)の教えを説いてくださったわけです。
その住職は、
浄土真宗の「他力本願」の教えを「ネコ」と「サル」でこのように説明したのです。
それぞれの子どもが移動するとき、
子ネコは、親が首の後ろを甘噛みして、親に捕まえられて移動します。
対して子ザルは、親の背にしがみついて、親を捕まえて移動します。
要するに、
子ネコは親を信用していて、どこかで落とされる心配をしていない。
だけど、子ザルは親が信用ならなくて、落とされないようにしている。
真宗では、死んだ魂は最初は必ず地獄に落ちていきます。
仏様はその途中でその魂を捕まえて、
どこかで落とすことなく、必ずお浄土へ連れて行ってくださる。
これを真宗では「他力本願」と言います。
亡くなった○○さんもそうです。
地獄に落ちていくところを、仏様に捕まえられてお浄土へ行ったのです。
皆さんが先ほど唱えた「南無阿弥陀仏」が、
いわゆる「私は仏様の教え、他力本願に従います」という意思表示です。
これを唱えている皆さんは、安心して仏様に捕まえられてください。
と、まぁこんな風に。
ほぇ~。と思ったでしょう?
そうなんです。あまりにわかりやすすぎて、語彙力を失うんですよ。(笑)
「言い得て妙」とはまさにこのことだと思いましたね。
遺族一同も目を丸くしていました。
私の家族もみんな納得。
果たして、住職がその説法をどれだけ事前に考えていたかはわかりませんが、
いずれにしても、なんという教授力でしょうか。
そういう人が寺の坊主に適任なんでしょうけど。
それにしても、
ぜひ、うちの大学で講義をやってもらいたい。
絶対取るから、その授業。(笑)
最後に、
住職がその説法の締めくくりに言った言葉を忘れないうちに書き残して、
この記事を終わりにしたいと思います。
人は、「もし明日死んだら」という話をよくしますが、
「死ぬ」ということは、遅かれ早かれみな平等に訪れます。
だから、そんなことを言ってもどうにもならないんですよ。
どうせ皆死ぬんですから。必然なんですから。
そんなことより、
「もし明日の朝もちゃんと目が覚めたら」という話をしましょうよ。
私にしてみたら、明日も目が覚めることの方が、
よっぽど ”もしも” の話ですよ。
皆さんは、「もし明日もちゃんと目が覚めたら」どうしますか?