tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

請求書と領収書

 先日、亡くなった父方の祖父の四十九日の法要に行ってきました。例によって話の上手な住職の説教がこれまた凄まじく的を得ておりましたので、紹介させてください。前回の話が気になる方はこちらをご覧ください。

 

tairo0079.hatenablog.com

 

今回の説教も、真宗の教義上の特徴について説いてくださったのですが、これをタイトルにもある “請求書” と “領収書” という2つの言葉を使ったのです。

 真宗では、今回のような法要は供養とは言わないのだそうです。というのも、他宗派で言われる供養というのは、「私たちがお寺さんにならって読経しますので、なんとか仏になってください」という行為だそう。しかし、即身成仏を教義の1つとする真宗においては、死んだ人に仏となってもらうよう “請求する” のはおかしな話。なので真宗は供養をしないというのが基本スタンスなんだそうですね。そこで登場したのが “請求書” と “領収書” というわけです。

 住職が言うには、

 禅宗などの言う「供養」というのは、「私たちがお寺さんにならって、あなたのためにお経を読むので、どうかこれで成仏して(仏になって)ください」という、言わば “請求” なわけです。その時のお経というのは、私たちから亡くなられた方に対する “請求書” にあたるわけですね。

 しかし、真宗はそうじゃない。真宗では、亡くなられたあと、仏がお浄土に連れて行ってくださるんです。この前の時はこれを「ネコ」と「サル」で説明しましたかね。なので、この(四十九日の法要)ような法要を供養とは言いません。真宗は仏縁というのを非常に大事にします。なので、「私たちの御縁はあなたのおかげでできたものです。ありがとうございます。」という、言わば “領収書”になるんです。 それが、皆さんが先ほど読んでいただいた「南無阿弥陀仏」というものなのです。

 ということだそう。またしても唸る遺族・親族一同。

 私は、指導教員の先生が宗教について研究なさっている方なので、研究者という立場から真宗の教義を含め、様々なことを教わります。その一方、宗教者であるお寺の住職からも同様のことを教わる機会があります。あくまで研究成果の1つとして教える研究者と、一般の人の視点に立ってその教えを説く宗教者と、2つの視点から同じことを聞くことができたのです。無知な私にとっては、両者とも説得力のある言葉に聞こえました。だから何だと言われれば、それまでなのですが、大学で研究成果としての宗教を教わる機会が圧倒的に多かった私にとっては、この住職との出会いは非常に価値のある経験になったと思います。この奇妙な二項対立を私の中でどう併存させていくか、考える必要があるなと感じました。