tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

何者

 元来、私は嫌いな人間に対しては非常に、そして非情に攻撃的な人間であった。だが、その性格は中学時代にして既にほぼ消滅した。嫌いな人間を攻撃しても何の解決にもならず、それどころか先生に目をつけられて穏やかな学校生活が送れないことに気づいたのだ。そこから、私は嫌いな人間には “攻撃” ではなく “防御” を行うようになった。 “防御” と言えば聞こえはいいが、平たく言えば回避行動のことだ。しかし、攻撃との対比にもなるし、語感もいいので、この言葉を使うことにしよう。

 しかし、人間は愚かな生き物である。私もご多分にもれず、高校時代も中学時代と同じ過ちを繰り返した。まだ若かったと言えばそれだけ。だが、中学時代のそれとは少し性質のことなるものだった。中学時代のそれは、嫌いな人間に対する個人的な嫌悪に起因するものだったのに対し、高校時代のそれは、友人が受けた屈辱に対する憤怒に起因するものだった。故に他人を攻撃した。否、友人のためだと言い訳をして、怒りに任せて他人を攻撃したと言う方が正確だろう。いずれにせよ、私はまたしても他人を攻撃した。そして、私はその後の高校3年間の生活をほぼ棒に振った。たった1つの行動で、ただでさえ弱かった校内における私の社会的地位はなくなった。少なくとも私はそのように認識している。それ以来、2度と——いや3度と言う方が正確か——攻撃を行うことはなかった。そして、現在に至る。

 大学生になって2年と少しが経つが、私は他人への攻撃的な感情が薄れると同時に、 “嫌いな人間” という判定がかなり甘くなった。そして、無意識のうちに “嫌いな人間” を “苦手な人間” と大別するようになっていた。それに気づいたのもごくごく最近のことである。しかし、それらに対して防御行動を行うのは変わらない。今さらだが、私の言う “攻撃” が、力に任せた実力行使などではないということを弁明しておきたい。というのも、その土俵で戦ったとしても、勝ち目がないのは自明だと思っているからだ。我ながら、自己評価の低さには自信がある。悪く言えば悲観的、よく言えば現実主義というところだろう。勝ち目のない勝負は好きではない。だが、勝ち目がなくても挑まねばならない勝負もまた存在することは、わざわざ言及するまでもない。しかし、できることなら私が優位に立てる土俵で勝負を挑みたい。だから、実力行使はしない。その結果、嫌われる。実力を行使しない攻撃は陰気な方法にならざるをえないから当然のことである。これが現在まで攻撃行動に出なかったもうひとつの理由だ。

 私が嫌いになる人間ははっきりしている。一般常識(モラル・マナー・エチケットも含む)が圧倒的に欠如している人間、自分の価値観(特に私と異なる価値観)を押し付けてくる人間、何かにつけてマウントをとってくる人間、自分を客観視できないまたは自己評価が異常に高い人間、1度でも、物理的・生理的・本能的・絶対的に合わないと(一方的であっても)感じてしまった人間。これらが、私が「嫌い判定」を下しうる可能性のある人間たち。しかし、これだけでは「嫌い判定」は下さない。これに加えて、私に「こいつはもうどうしようもない」と判断されている状態で、私もしくは私の友人に危害・不利益・不快感を与えた人間となることで初めて私に嫌われることができる。裏を返せば、私は、自分が上に列挙したような評価を他人に与えている以上、自分の振る舞いにも最大限気を配るようにしている。

 ここで噴出しそうな批判として、「お前は人間関係を理屈で考えているのか」という意見があるだろう。その質問への私の答えはノーだ。ここまで述べてきたことは、私が無意識にしてきたことを、数年をかけて自分で分析して導き出した1つの答えなのである。人間関係は理屈ではない。少なくとも、大学生時点では理屈で人間関係を築くことに何もメリットはない、仮に理屈で築き上げた人間関係による人脈があったとしても、使い道はほぼない、というのが私の持論だ。私が仲良くしている友人たちは、私が仲良くしたい、私と仲良くしてほしい、その人と仲良くなりたい。だから仲良くしているという、それだけのことだ。私が真に言いたかったことは、人と仲良くなるのに理屈はいらないが、人を嫌いになるのに理屈が必要だということだ。

 このようにして、私はほぼ日常的に自己分析をしている。この記事は、本来私の脳内に繰り広げられる、議論にも近い分析作業の一部を記述してみたものだ。不思議なことに、この作業をしていると、いつも最終的に辿り着く結論がある。

「私は一体何者なのだろう。」

読者の皆さんはこの記事を読んで私が何者だと感じたのだろう。

また分析項目が増えた。

 

何者 (新潮文庫)

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