tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

まちがいさがし

 日本には昔からこんな奇妙な言葉がある。「他人の不幸は蜜の味」人の不幸話ほど面白いものはない。そういう考え方をする人間が多いという証拠だ。だが、誰しも間違いを犯すことはある。それら全部を逐一晒し上げて、笑い物にしたり、袋叩きにするのは如何なものだろうか。

 私の趣味とも大きく絡む話題だからかもしれないが、スポーツにおける誤審は、袋叩きに遭う間違いの典型例であると見受けられる。誰が見ても明白な誤審であれば、叩かれて当然であろう。しかしながら、世の中には、怪しいと思ったプレーを、わざわざコマ送りにしてまで誤審かどうかを確かめようとする、酔狂な連中もいる。さらに言えば、そのような連中は、そのスポーツの経験があまりない場合が少なくない。私がなぜそのように感じるかというと、問題となるプレーを第三者的視点からでしか見ていないような口ぶりをしている場合が多いからである。「ここ、ベースに手が届く前にタッチされてる。あの審判、誤審したな。」スポーツファンを自称する私からすれば、このような批判はしょうもない。審判がアウトと言えばアウト。スポーツというのはそんなものだ。さらに言えば、プレーをする選手もそんな程度にしか考えない。少なくともアマチュアにおいては、と枕詞を置くべきかもしれないが。と言うのも、自分たちのプレーを見せ物にして収入を得るプロの選手と、あくまでも自分たちの飽くなき向上心の結晶として大舞台でプレーをするアマチュア選手との間では、その根底は大きく異なっているからである。そのような根本的な違いがあるとは言え、選手たちは1つのプレーを毎回毎回引きずったりはしないはずである。少なくとも、私が現役でスポーツをしていた頃はそう考えていた。

 スポーツには心・技・体の要素が必要であるとよく言われる。私もその認識に異論はない。さもすれば、審判員に誤審をさせたのは、審判員自身の怠惰ではなく、プレーをした選手の気迫・気概であるとは考えられないか。時に心は技をも上回る。誤審はこれの表れであると見ることはできないのであろうか。無論、誤審を正当化しようというのではない。誤審がないに越したことはない。しかしながら、相手の技術をも勝るそのプレーを誤審だと一括りにするのも如何なものだろう。実際に選手としてプレーした経験がある人には理解してもらえると思うのだが、審判員の判断は試合の流れや雰囲気に左右されることが時々ある。それは、プレーしている選手たちにはあまりわからない程度ではある。プレーしている選手たち皆が異論を唱えざるを得ない判定であれば、それは誤審として処理されるべきであろう。さらに私に言わせれば、気迫の籠ったプレーを誤審だと片付けてしまうことの方がよっぽど興醒めする。ベースに手が届いてないのに審判がセーフと言ってしまうのは、それはその選手の気迫が審判員を含めた試合の雰囲気全体を支配してしまったからである。それはその選手の好プレーであることに間違いないだろう。アマチュアスポーツであれば、1つのプレーが自分の生活に関わる訳でもない。仮に後から誤審だと騒がれるようなプレーが原因で勝敗が決してしまっても、それは審判員の過失ではなく、選手自身の手柄であろう。それらを含めてアマチュアスポーツは面白いのではないか。まして、リプレイ検証の作業を素人がして、その判断までも素人がする。粗探ししながらスポーツ観戦することの何が面白いのだろう。もっと純粋にスポーツを楽しむことは出来ないのか。SNSで時折流れてくる、コマ送りにした誤審疑惑の映像を見ると、ついこんな事を考えてしまう自分がいる。

 そうは言っても、時には甘い蜜を吸いたくなることもある。蜜の味がする不幸話には、少なからず中毒性がある。他人を嘲笑うことによって得られる、優越感にも近いその快楽は、それ以外の何にも変えられない。だから人は他人の間違いを探そうとするのだろう。時々、蜜を啜る自分をはたと俯瞰すると怖気がする。