tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

思考の言語化

   先日、高校時代の友人が地元で開催した、小学生対象のイベントにスタッフとして参加した。イベントの中身としては、午前は「お勉強TIME」として小学生たちが自分の夏休みの宿題に取り組んだ後にチーム対抗で簡単なゲームをし、スタッフ(断じて私ではない)お手製の昼食をとった後、午後は場所を移して体を動かすというものだった。

   午前のお勉強TIMEにて、興味深い宿題に取り組む児童がいた。なんでも、新聞社に出す投書が課題になっているというのだ。その児童曰く「先生が勝手に決めて、それでみんな書かされてる」らしい。投書というのは、新聞等の読者が、自らの意見や感想を自由に書いて送るというものだ。この前提として、自分自身の意見を持つ人が、それを世間に表明・提起したいなどといった自発的な志向を持っているという点を考慮に入れるべきだろう。そうした場合、 “書かされた” 投書というのは、投書としての役割を果たすのか少し疑問に感じた。このような実態があるということを考えると、時折話題になる小学生の投書も、その児童が自発的に書いたものなのかどうか考えてしまう。特に、私のように性格の曲がった大人にとっては、恰好の餌となってしまうだろう。

   しかし、仮にそうであったとしても、自分自身の考えを文字に起こす機会を与えるという点において、投書を用いることは非常に効果的ではないかとも思う。今の私はこうして「ブログ」という媒体を用いて自分の考えを文字に起こす機会を作っているが、小学生時代にそのような機会があったかと聞かれると答えに困る。読書感想文とは大きく異なる形で自分が考えていることを文字に起こす経験ができるのは、とても有益に思う。自分の考えていることを文字に起こす作業は厄介である。小学生が読書感想文を後回しにしてしまうのも、その作業が厄介であることを無意識的に理解しているからではないかと思う。ましてや投書のように、特定のテーマや題材も自分で決める必要がある、完全なゼロベースから自分の考えを書くのは、さらに厄介である。今回の投書の課題が、学校の先生によってテーマが決められたものかどうかまではわからないが、いずれにせよ読書感想文の時のように、テーマが第三者的に決められた状態で書くものではないので、難易度としても読書感想文とは比べ物にならないくらい高いのではないかと思う。また、書かされたものであったとしても、自分の考えを表明しようという試みは、思考を整理する練習にもなり得る。まして、それを自分のことをよく知る先生やクラスメイトなどではなく、自分のことを何も知らない不特定多数の人の目に留まりうることを考えて書くことは、読書感想文とはまた違った点に注意が必要だろう。

   何度も同じ話を繰り返すようで申し訳ないが、ブログを書くのも非常に難儀する。投書同様ゼロベースから書くものだからである。しかしながら、私にとってブログという媒体は非常に有効的なものとなっている。実際、ブログを始めてから、私自身の “思考の言語化” 能力は格段に向上しているような実感がある。とは言え、この能力は上げられるだけ上げておくに越したことはない。私の意欲が絶えない間は、このブログも続いていくだろう。