tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

ハラハラ

    このご時世であるからして、様々な立場の人たちへの配慮というものを、もっと広範に考えなければならない。しかしながら、その配慮を強制させる傾向も、この世の中には生まれてきたように感じる。

    そもそも、その “配慮” というものは、ある種の特定の他者に対するリスペクトから起因するものではないかと思う。一口にリスペクトと言っても、言葉通り “尊敬” “敬意” という場合もあれば、少し飛躍があるかもしれないが “尊重” という場合もあるだろう。いかにせよ、配慮をすべき時点がいつであるかを間違うべきではない。

    さて、話を戻そう。ここで問題視すべきは、現代で巻き起こる “配慮の強制” とも言うべき現象である。最近では、セクハラやパワハラなど “○○ハラスメント” という言葉を用いて、社会における問題行動を批判する傾向が具に垣間見える。批判の対象が誰がどうみても “問題行動” であれば、私がここで取り上げる事はないが、わざわざ言及するのは、それが過剰ではないかと感じるからである。「ハラスメント」という言葉は本来的には「嫌がらせ」という意味の言葉である。嫌がらせと言うからには、意図的で悪意がある行動がこれに当てはまるはずである。それが、例えば “スメル・ハラスメント” ではどうだろう。体臭や口臭などのケアをしない人に対してしばしば批判的に用いられる言葉だが、そこに悪意や意図はあるのだろうか。これ以外にも様々な “ハラスメント” が近年誕生している。

 他者を慮るという行為は、日本という国においては、その国民性にも関わる点でもあり特に重要である。しかしながら、少しばかり思慮が欠けていただけで、嫌がらせなどと揶揄されてしまうのはいささか理不尽ではないか。無自覚・無意識であるものに対する批判ほど野暮なものは無い。いちいち目くじらを立てて、あれやそれやと文句を言うのはいかがだろう。グローバル化が進む中で、ハラスメントのみならず、様々な点において他者への配慮が今まで以上に必要な世の中になっている。しかし、それと同等に寛容さというものも必要になっているのではないかと思う。何でもかんでもハラスメントだと主張する “ハラスメント・ハラスメント” とも呼べる現代社会の傾向に、文化や国民性のさらなる発展・向上という未来は無いような気がしてならない。