tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

疲弊

 今、俺の全身を駆け巡るのは圧倒的な倦怠感。しかし、それは断じて疲労ではなく疲弊。同じだろうと思いたい奴はそう思えばいい。だが、俺は疲労していない。疲弊している。いや、やっぱ疲労もしている。でも疲弊の方が大きな割合を占めている。なぜか、ということを考える前に疲弊と疲労の語感の違いについて俺なりの使い分けを説明しておこう。身体的な疲れを疲労、それに精神的疲れを含有すると疲弊に変容する。だから、俺はいま疲弊しているのだ。大事なことだから2回言った。

 本題に入ろう。俺はなぜ疲弊している。要因はいくつも思いつく。勉強に追われる日々。将来への一抹の不安。人間関係の負担。自分の時間がない苦痛。だから疲弊しているのだろう。換言すれば、これらが俺の精神を蝕み、そしてそれが疲弊という形で表出したのであろう。しかし、俺の精神のすべてが蝕まれたわけではない。だが、あくまでこれは俺の経験則だ。

 俺の精神状態には、疲弊の先にもう1つの段階があることが実体験として確認できている。それは理性の崩壊である。それ以上の説明はない。理性が崩壊するのだ。それだけと言えばそれだけなのであるが、俺がこの境地に辿り着くということは精神衛生状態が非常に悪化しているということでもあるのだ。そして、この境地は突然やってくる。疲弊は徐々に状態悪化が進むが、それが一定値になると急に理性の箍が外れる。だが、この期間が長く続くことはない。理性の崩壊は疲弊段階において解消されなかった悪い精神衛生状態を一気かつ強制的に解消すべく、半ば自然発生的、自動的に行われることであるためだ。この段階においても俺の精神のすべてが蝕まれたのではない。

 では、精神のすべてが蝕まれた状態とはどのような状態なのだろうか。または理性の崩壊の先にまだ何か段階があるのか。それは定かではない。一応、俺の記憶ではその先へは到達していないはず。ここで考慮すべきは「俺の記憶では」ということ。つまり、理性が崩壊する時点でまともではなくなるのだから、無意識的に何かをしていても把握できていない可能性が捨てきれないのである。これは恐怖でしかない。しかし、周囲の人たちからは俺が常人には理解不能な行動をしているという旨の情報は入っていない。したがって、俺が他人に実害を及ぼす行動には出ていないと言っていいだろう。また、俺自身にも不自然な変化はなにも起きていないので、俺がこの第3段階(仮)に到達したことはないと言っていい。俺の精神衛生がそこまで悪化したことがないことの証拠でもあろう。

 俺は、第2段階・理性の崩壊には自然発生的で自動的に到達すると言ったが、意図的に突入することもできる。と言っても、自然的な到達とは崩壊の具合が少し違う。どう違うかといえば、その加減が自分で調節できるかどうかというところだろう。意図的突入は調節が可能だ。さらに言えば、この記事も意図的な第2段階への突入行動だと言える。この記事の内容と投稿時間を見れば、普通の人の行動ではないのは自明だろう。

    最後にもう一度言っておく。俺は疲弊している。