御難渋に候
最近、多忙を極めておりまして、
ブログの執筆がうまいこと進んでいないこの頃であります。
ブログの中で触れたかどうかは忘れましたが、
私は、日本史を学ぶ大学生をしております。
今年から受講しなければならない演習の授業では、
日本の現代史・近世史・古代史の分野の論文を受講生たちが各自で読んで、
授業内で議論(意見交換)しなければなりません。
つい先日までが現代史分野だったのですが、本当に何を言っているのかわかりませんでした。
この記事でも触れた通り、私は横文字が大の苦手です。
なので、専攻分野も世界史ではなく、日本史にしたのですが、
現代史分野というのも、やたらと横文字をお使いになる分野なのですね。
4週に渡って4つの論文を読みましたが、
横文字の使用頻度が凄まじいったらなんの。
その中でも「不在証明」と書いて、「アリバイ」とルビがふってあるのを見たら、
さすがに笑ってしまいましたよ。「いや週刊少年ジャンプか!!」ってね。
…失礼しました。
いやしかし、歴史の理解というのは難しいのですよ。非常に。
私は、近世史を専攻分野に据えておりますが、この現代史(ないしは近代を含めた近現代史)という分野、それ以外の分野とは一線を画する何かがあるような、言うなれば、厚い壁のようなものをひしひしと感じたのです。
歴史を学ぶ者が必ずといっていいほど通る、ある言葉があります。
「すべての歴史は現代史である。」
という言葉です。
どういう意味の言葉か。これには人によって様々な解釈がなされます。
近世史専攻の私が不用意にわかったような口を利くと、現代史専攻の方から、どこでどんな顰蹙を買うかわかりませんので、多くを申し上げることはやめにします。
しかしながら、この言葉を通して言えることは、
その時代の関心の方向によって、描かれる歴史は大きく異なっていくということでしょう。
私が日本近世史において関心のある分野は、当時の被差別身分の人々の生活です。理由を話すと長くなりそうなので、なるべく簡潔に述べたいと思います。
私たちの世代というのは、学校で「人権同和教育」というのを受けてきました。
差別が行われてきた時代があったことを理解して、今後そのような負の歴史を作らせまいとして行われてきたものです。
しかし、私はこれに疑問を感じていたことがあります。
同和問題の根本である部落と呼ばれていた地域の存在。その古くは中世以前にまでさかのぼります。「えた」「ひにん」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
この言葉、最近ではあまり使われなくなってきています。差別用語を教えるべきでないという風潮がどうやら広まりつつあるようなのです。
おかしいとは思いませんか?
差別の存在について理解させようとする教育を行う一方で、その実態については全く語られない。日本の教育の矛盾です。
だから、私は興味を持ったのです。なくすには知る必要がある。そう感じたのです。
確かに私が学ぼうとする分野は近世史と呼ばれるものです。しかし、その関心の所在は現代にある。
途中話が少し脱線しましたが、これが歴史が現代史だと言われる所以なのではないかと私は思うのです。
この言葉の解釈については私だけでどうこうできることではないので、どうかご意見いただければと思います。
と、いつも通り長々とだらだらと書いたわけですが、言いたいことは歴史を学ぶことは難しいということです。
どうも最近文系学部が蔑ろにされていると感じる節があります。
先日先生から聞いたのですが、私が所属する学部の今年度の予算が昨年度比で4割も削減されたらしく、学生のコピー代が学部の予算から捻出できなくなったそうです。
どうも政府の政策が関与しているそうですが、学業に支障をきたす政策があっていいものでしょうかね。まぁあまり言うとこの記事が消されるかもしれませんので、ほどほどにしておきますが。
一時期、「文系学部消滅説」がまことしやかに囁かれていましたが、そろそろ現実のものになるやもしれませんね。
科学技術の発展だけが社会の発展に貢献すると言われているような気がしてなりません。
時代の先見の明となるような革新的な研究が出ていないというのもまた事実なのかもしれませんが。
ん? 何を言っているかよくわからない?
それは、全部を頭で理解しようとするからです。
感覚的に理解してください。