tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

“狂う” ということ ー特別講義「夜の恋愛学概論」受講レポートー

 もうひと月も前になりますかね。ある夜のことでした。私は数人の友人たちと学校で勉学に励んでいました。それは決して物珍しい光景ではありません。先輩たちからも一目置かれるほどの “意識高い系” が集まった私たちの学年は、夜遅くまで学校に居残り、勉強している事が多いのです。ですが、その日の夜は少し違いました。私たちがいる部屋の真向かいの部屋の研究室にいる、ある先生が、私たちに「君たちにはずっと前から面白いものを見せてあげようと思っていたんだよね」と声をかけてくださったのです。その時の先生は、勉強が忙しそうだしまた今度という感じだったのですが、思いの外私たちの食い付きがよかったため、先生の研究室にて特別講義「夜の恋愛学概論」が開講されたのです。

 その講義では、先生ご自身の経験を踏まえて、様々なことを語ってくださったのですが、中でも印象的だったのは「恋愛は狂うくらいがちょうどいい」というフレーズ。人目をはばからずにイチャついてるカップルは、自分たちだけの世界に酔いしれる、文字通り酔狂な状態。だから、その世界の外にいる、文字通りの外野の声は届く訳もなく、外野がとやかく言う筋合いもないと、そういうことだそうです。

 私は、理性的に感情的な人間だと感じています。自らの感情を理性的(=論理的)に理解しようとし、理性によって自覚的に感情を抑揚させる部分がある人間だと思っているのです。したがって、私は “狂う” つまり、理性を失くすことに対して人並み以上の、恐怖にも嫌悪にも近く、またそれらとも異なる感覚があるのです。

 先生はまた、「30歳を過ぎると恋にかまける自分を、さらに達観しているもう一人の自分がいて、どうしても少し頭が冷めてしまう」と仰っていました。私にもいるな。と思いました。およそ20年の人生しか送っていない若輩者のはずですが、私にも既に自分を達観する——というよりは俯瞰しているという方が正しいかもしれませんが——もう一人の自分がいるのです。それが前に述べた、感情を理性的に抑制しようとするというところに繋がっているのでしょう。

 それの良い・悪いは私には判断しかねるところです。ただ、いわゆるおじさんと呼ばれうる人たちが、「自分の若いころは~」とか「若気の至りでね~」などと楽しそうに自分の失敗談・武勇伝を語っているのを見たり聞いたりすると、少しうらやましいなと感じます。それと同時にこんな自分では、将来そんな話をすることはできないなと、物悲しさも感じています。とは言え、まだ遅くはないと思いたい。いつからか私の中に生まれてしまった、自分を俯瞰するもう一人の自分を1度殺して心から “狂い” 、若気に至りたいと強く感じた「夜の恋愛学概論」でした。