tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

授業の面白さポイントは何点? ‐教育の真の在り方とは‐

 私のブログを何度もお読みいただいている方々にはもはや自明かもしれないが、私は社会科教員を志す歴史学生である。したがって、それに相応しい教養を身につけることが求められ、歴史学生でありながら、歴史以外の事も学ばねばならない。例えば、法律であるとか、経済であるとか。それらは私の専攻ではない分野であるから、当然そこには明るくない。明るくないから、授業を聞いていても理解できたり、できなかったり。話を聞いても理解できない授業は面白くない。面白くないから余計に話を聞かない。話を聞かなくなるから、その分野に全く明るくならない。だから、いつまで経ってもその授業は面白くならない。これが、教育における「負の連鎖」である。同様の現象は大学のみならず、中学や高校でも起きているだろうし、実際に私も経験したことがある。これは深刻な問題でろう。

 しかし、その是正には並々ならぬ努力が必要となる。そう考えるようになったのは、最近受講した集中講義からである。その集中講義を担当する先生の授業(これも集中講義だったが)を以前にも受講したことがあった。その先生の授業は、正直に言えば当時の私にはあまり面白く感じなかったのだ。面白さポイントを付けるなら10点といったところか。なぜなら、前述の通り専門外の授業だったからだ。しかも、私は自他共に認める不真面目な学生であるため、一度でも「面白くない授業」判定を下せば、その授業は文字通りの片手間で聞いてしまう。そのため、その授業を惰性で過ごしてしまった。つまり、上の連鎖と全く同じことが起きてしまったのである。

 かくして、この度同じ先生の授業を受けたのであるが、それが不思議なことに、結構ちゃんと面白く感じるのだ。面白さポイントで言えば68点ぐらいであろうか。以前と言っても約2年半ほど前になるが、この変化はその間に先生の授業方針が変わったと言うよりは、私自身に蓄積された知識量が増えたことに起因するのではないかと思う。つまり、基盤となる知識が増えたことに伴い、先生の説明が何となくではあるが、理解できる部分が増えたのである。理解できる部分が増えれば、当然面白いと感じる部分も増えるので、結果として面白さポイントも上昇したのであろう。

 私自身のこの経験は、昨今の教育界の状況について考える上で、私にとってはある種必要な経験であったと思う。生徒に「授業が面白い」と思ってもらうには、生徒の側にも、それを理解するに足る相応の知識を持っていることが前提となるのだ。若い人が、オジサンのギャグを聞いてつまらないと感じるのと同様、どれだけ話している本人が楽しそうでも、それが伝わらなければ、さらに言えば理解してもらえなければ、聞いてる側は面白いと感じないし、聞くための熱量も冷めてしまう(これを一般に「寒い」というのだろう)。つまり、先生がどれだけ頑張って教材研究して工夫して授業をしても、面白くないものは面白くないし、面白いものは面白い。そういうものなのだろう。

 これは私論でしかないが、「理解する」感覚というのは「知識の点と点が線で繫がる」感覚に限りなく近い。つまり、「知っている」ことと「理解する」ことは区別されねばならないのだ。従来の社会科教育は概ね前者に重きが置かれてきたように思う。しかし、近年は後者を重視する傾向が強くなり、それを反映する形で学習指導要領の改訂も行われた。「主体的・対話的で深い学び(アクティブラーニング)」をと呼ばれる授業が求められるようになったのである。しかし、何度も言うように、授業による生徒の理解度は生徒の知識レベルに大きく依存する。これまで社会科嫌いな人間が多くいたのは、ただ知識を教え込まれるのみで、それを線で繋げるような過程を経るような授業が行われてこなかったからだろう。私自身は、これからの教育においては、「理解」のみに重点を置くのではなく、これまで通り「知識」を定着することも継続して行われていくべきだと思う。そうでなければ、どれだけ教員が点と点を線でつなげるような授業をしても、生徒の持つ点がなければそもそも線を繋ぐこともできず、結果的に生徒が授業を面白いと感じることも増えることはないだろう。ただ趣向を凝らしただけの授業を面白いと感じる生徒は、それ相応の知識を持つ生徒だけだと、私は思う。

    しかしながら、結局のところ、「面白くない」授業をいかにして「面白く」するかは、教員の力量による。私が真に言いたいのは、どれだけ頑張っても生徒全員にウケる授業をするのは困難だが、そのための努力というのは、必要最大限に行わなければならないということである。「どうせ面白くないなら今まで通りでいい」などのような安易な割り切りによるたった1人の教員による独断専行が、どれだけ多くの「負の連鎖」を生み出すのか、もっと深く考えなければならない。