tairoの徒然日記

心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書く日記

真の「知識」とは -「豆知識」と「うんちく」-

 最近、勉強が忙しくて息つく暇もない日々を過ごしています。ただ、勉強することも悪いことではないなと思うことも増えてきました(そうでもしないとやってられない!なんてことは思っていません)

 つい先日、授業の課題の一環で、明治大学文学部で教授をなさっている齋藤孝先生の書いたコラムを読みました。一言で感想を言えば、大変興味深いものでした。ありきたりな感想ですよね。でも、今回の「興味深い」という感想は、何も思うところがなくて、何とか「興味深い」を絞り出したのではなく、今まで触れたことのない視点で語られたものであったため、私の語彙力では「興味深い」と表現するしかなかったのです。どのようなコラムだったかと言うと、「私の教科書観」と題され、文字通り齋藤先生自身の教科書観が述べられたものでした。そのなかで、1つ気になった箇所がありました。それは、齋藤先生が教科書の存在意義に関連して、「知識」とは何かに言及した箇所です。

 斎藤先生は、コラムのなかでこんなことを述べておられました。

 教科書とは何か。それはこの国を担う次の世代に、強制してでも身につけさせるべき絶対に重要な知識を凝縮したものだといえます。

 教科書は、そのほかの参考書や書物と同列のものではありません。言うまでもありませんが、教科書には国による検定があります。それを絶対視して崇めなさいということではなく、いい加減な知識を教科書として出版することが許されない仕組みになっている点こそが大事なのです。つまり学校という場で最低限学ばなくてはならない知識と、それに基づいて生徒個々人が涵養する判断力の「基準」となるべきものが教科書だということです。

あの膨大な量の教科書に記される「知識」はすべて日本人が身につけるべきものだということです。これは、昨今批判されている日本の「詰め込み教育」を容認するかのようにも読めてしまいます。

 しかし、齋藤先生の主張はそうではありませんでした。

 知識とはネットワークです。そこで重要になるのが「知識の母体」ともいえる基盤です。それがあってこそ、インターネットで検索をしてさらに知識が膨らんでいく。つまり知識のネットワークの要となる「島」がしっかりと存在し、そこにいろいろな知識が寄り集まってくるのです。

(中略)

 その「知識」とは、暗記して済ませられるようなものではありません。知識に基づいてそれらを組み合わせ、自分なりにまとめる。そういう、歴史の読解力といった力のことです。

(中略)

 ~、歴史とはただ年号や史実を暗記するものではなく、知識を基盤としながら自分なりに論理立ててまとめていくことが重視されるべきだということです。

教科書に記された「知識」はすべて「暗記する」ものではなく、「身につける」べきものだというのです。その上で「知識」は相互に連関性を持たせることによって、さらに寄り集まるのだと。

 

 これを読んだとき、私の頭をよぎったものがあります。それは「豆知識」と「うんちく」です。この2つはほとんど同じものを指す言葉です。ですが、それぞれの言葉が与えるイメージは少し違いませんか?私の感覚ですが、「うんちく」の方が少し聞こえが悪い印象です。そのような印象の違いを考えたとき、「うんちく」は会話のなかで、しばしば話の腰を折りながら披露されることが多いのではないかと思います。対して、「豆知識」はあまり本筋とは関係ないところで唐突に披露されるので、話の腰を折ることも少ないのではないかと思います。つまり、「うんちく」は話の邪魔をしうる知識で、「豆知識」は話の邪魔をしえない知識だと思うのです。何が言いたいのかと言うと、「うんちく」の方が知識同士の連関性がより強いものに感じられるということです。

 別に「豆知識」がいらないというのではありません。ただ、知識のネットワークという観点で考えたときに、「うんちく」の方が知識としてのあるべき姿に近いのではないかと思うのです。とは言え、話の腰を折るような「うんちく」を披露すること自体は、そもそもあまり好ましくないかもしれませんけど。