現代日本におけるオタク排他主義的思想の蔓延
私はオタクである。それ以上でもそれ以下でもない。しかしながら、この現代日本社会はオタクたる私にとって非常に生きにくい社会であると言えるだろう。私は、そんな社会においてもオタクであることを隠すつもりは毛頭ない。なぜならそれが私のアイデンティティの一部であるという自覚があるからである。しかしながら、“オタク” という言葉にはあまり良くない印象が必ずと言っていいほど付いて回るように感じる。一体なぜか。
その理由として、オタクが非社会的存在であるというイメージが、日本人のなかに一般的な感覚として存在しているということが言えるだろう。オタクと聞いて想像されがちなイメージとして、盛り上がるポイントが理解不能、コミュ障なのに喋り出すと止まらないかつ早口、陰キャだけど集まると謎の団結力が生まれる 等々。総じて気持ち悪いと思われがちなのである。わからないではない。オタクは自分の好きなものに関しては見境がない。故に時折周りが見えなくなることもある。それが上のようなイメージを抱かれてしまう要因なのではないかと感じる。
だが、考えてみてほしい。それはオタクにしか当てはまらないのか。例えば、スポーツならどうか。感覚的に、スポーツファンはアニメファンより社会性が高いと思われているだろうが、スポーツファンにしかわからないツボも当然あるだろう。なのに、アニメやアイドルを話題にしている時とは違って冷たい視線を受けることはない。なぜか。アニメやアイドルなど、あまり人と関わる必要がなく、自分のみで完結させられるコンテンツが好きな人ならば、コミュ障・陰キャなどといった特徴を持つことは珍しいことではない。逆に言えば、そのような人たち同士がアニメやアイドルの話で盛り上がっていることが気持ち悪がられるのだろう。それがスポーツなどのような、人と関わりを持たなければ成立しないコンテンツとの根本的な違いである。 “オタク” という言葉が与えるイメージには、このような因果関係の逆転現象が起きているのである。
さらに言えば、 “オタク” と “ファン” という呼称の違いが、オタクに対する風当たりの強さを最もよく表していると私は思う。“スポーツファン” を名乗る人がいても “スポーツオタク” を名乗る人はいない。特定のモノ(分野とも呼べるだろうか)に対しての愛と情熱があるならば、それはオタクとしての十分条件を満たしていると言えるだろう。
“オタク” は蔑称では断じてない。これを蔑称と同等のものとしたのは社会である。オタクが住む世界はオタクにしか作れないのか。歩み寄るべきは我々オタクの側ではなく非オタの諸君ではないのか。
偉そうに講釈を垂れているこの記事を、所詮はオタクの戯れ言だと笑う非オタ諸君の姿が目に浮かぶ。